宗教の功罪 – 其の二 –
宗教のおかげで、力の弱いホモ・サピエンスが、ひとつに力を合わせて生きることができてきたのであります。
しかしながら、何にしても善い一面もあれば、負の一面もあるものです。
そんな宗教の功罪について考えていたところ、毎日新聞の八月二日の夕刊の一面に、「「魔女狩り」繰り返さぬために スコットランド首相、犠牲者に謝罪」という記事が出ているのが目にとまりました。
魔女狩りというと、『広辞苑』には、
「主に15~18世紀ヨーロッパで、男性を含む特定の人物を魔女として告発、糾問・処刑(もしくは私刑)などにより迫害したこと。社会変動による不安を背景に、さまざまな人々が攻撃対象となった」と説明されていて、更には、「比喩的に、異端分子と見なす人物に対して権力者や社会の多数派が不当な制裁を加えること」と書かれています。
新聞の記事には、
「英国のスコットランドで、中世以降の「魔女狩り」の犠牲となった人々の名誉回復を図る動きが進んでいる。
スコットランド自治政府のスタージョン首相は今年3月、議会で正式に謝罪した。」
と書かれています。
なんでも、「私は恐ろしい歴史的な不正義を認め、処刑された全ての故人に謝罪します」と「スタージョン氏は議会でそう演説し、処刑された人々は魔女ではなく人間だったと強調」したのだそうです。
「欧州で6万人処刑か」という小見出しが目につきます。
「中世以降、欧州では魔女狩りの嵐が吹き荒れた。
背景にはキリスト教信仰を中心とした共同体の中、異端や悪魔的な存在を極度に恐れた人々の心理がある。
住民の病気や穀物の不作などが村で起きれば、その「はけ口」として主に女性が攻撃され、一種の集団ヒステリー状態となった。
むしろ宗教改革が始まった16世紀以降に激しくなり、教会の腐敗を批判したドイツの改革者ルターでさえ魔女の存在を信じていたとされる。
カトリック、プロテスタント地域を問わず魔女狩りは広く浸透し、15~18世紀に4万~6万人が処刑されたとみられる。この風習は新大陸の米国にも広がった。」
と書かれています。
恐ろしい歴史の事実であります。
それでもその負の歴史を謙虚に認めて謝罪することは素晴らしいと思います。
仏教は、血を流すことのない宗教だと言われますが、それでも負の一面はあるものです。
かの白河法皇(1053年~1129年)が天下の三不如意、自分の意のままにならないもの、として『加茂川の水・双六の賽・山法師』と言ったのはよく知られていることです。
ここでいう山法師というのは、比叡山延暦寺の僧のことです。
かつて「僧兵」というのがいたのです。
「僧兵」を『広辞苑』で調べると、
「寺院の私兵。平安後期以後、延暦寺・興福寺など諸大寺の下級僧徒で、仏法保護を名として武芸を練り戦闘に従事した。悪僧。」
と説明されています。
岩波書店の『仏教辞典』でもう少し詳しく調べてみると、
「古代・中世日本における武装した僧侶の称。
<僧兵>の造語は新しいが、すでに10世紀末、世俗化した大寺院では、大衆(だいしゅ)層を中心に裹頭(かとう)で武装した悪僧が横行しており、11世紀には、かれらによる大寺社間の抗争、朝廷への強訴(ごうそ)などが頻発した。
ことに興福寺と延暦寺の衆徒(しゅうと)は、南都北嶺と並称され、強力な武力集団として知られた。
武士政権の下で寺社勢力が衰退するにつれ、武力集団としての僧兵の威信も低下し、信長・秀吉の統一権力によって消滅させられた」
と書かれています。
「強訴」というのは、「為政者に対し、徒党を組んで強硬に訴えること」であります。
僧侶が、武装して徒党を組んで強引に力を鼓舞していたのでした。
こういう歴史があったことも謙虚に認めて反省し、そこから学ぶべきであります。
いずれにしても、このように宗教が誤った方向へと走ってゆく時には、自分たちこそが正しいのだという強い思いが背景にあると思います。
魔女狩りのように異端を攻撃するというようなことは、自分たちこそが正統だという強い意識があるからであります。
僧兵にしても、自分たちの教えこそが正しく、それに随わない者には、武力で屈服させようというものであります。
先日の日経テレ東大学の出演でも、自分こそが正しいと思い込むことは危険であることを伝えました。
なにが正しいのかということは、常に自己を反省しつつ求め続けるしかないのであります。
自分こそが正しいと思い込むと、負の方向に走りがちになると知るべきであります。
坂村真民先生の詩を二つ紹介します。
喜び
信仰が
争いの種となる
そんな信仰なら
捨てた方がいい
大宇宙
大和楽
任せて生きる
喜びよ
信念と信仰
いろんな木があり
いろんな草があり
それぞれの花を咲かせる
それが宇宙である
だから人間も
各自それぞれ
自分の花を
咲かせねばならぬ
それが信念であり
信仰である
統一しようとすること勿れ
強制しようとすること勿れ
横田南嶺