かすがいのご縁
中学生の時にお目にかかって以来、三十年近くにわたってのご縁でありました。
なぜ見ず知らずの、田舎から出てきた私如きものをよくしてくださったのか、後になって思い当たることがありました。
それは、初めの頃は、私のことを、「紀州から来た」と仰せになっていたことから分かりました。
紀州という言葉に意味があるのです。
紀州は、松原先生にとっては、終生尊敬され、ご恩を感じておられた山本玄峰老師の出身地なのであります。
松原先生は、玄峰老師のことをとても大事にされて、晩年になっても、自分が今日あるのは玄峰老師のおかげだと仰せになっていました。
ところが、玄峰老師と松原先生とは、正反対のご生涯でありました。
玄峰老師は、紀州の熊野本宮湯の峰にお生まれになり、生後まもなく捨てられたと言い伝えられています。
養父母に育てられますものの、まだ明治の初めのころでもあり、満足な教育を受けられませんでした。
その後目を患い失明の宣告まで受けてしまい、意を決意して四国遍路をなされ、その途中で出家されたのでした。
それから五十歳になるまで雲水修行を続けられて、白隠禅師の道場である三島の龍沢寺の老師になられました。
晩年には、京都妙心寺の管長にもなられています。
学究肌ではなく、たたき上げの禅僧の典型のような方であります。
松原先生はというと、戦前に早稲田大学を卒業された方でありますので、好対照なのであります。
そんなたたき上げの玄峰老師が、まだ若き松原先生をお認めになったのでした。
このことは、松原先生にとっては大きな支えとなったのでありました。
そこで玄峰老師は、若い松原先生をお連れになって、自分の話よりも松原の話を聞くようにと仰せになっていたのでした。
これもよく紹介する話ですが、こんなことがありました。
こちらも『わたしの航跡』から引用します。
「その時分では珍しい大きなホールで、八百人収容できるということでしたが、玄峰老師と私の講演会の当日、なんと台風がやって来てしまい、集まった人数はたったの六人でした。
玄峰老師は目を患っていらしたので、お気づきにならなかったようです。
いつものように「後は松原の話を聞け」とばかり、わずかばかりの時間でお話を終えられました。
残り一時間半。私が講演を終えると、老師が声をかけてくださいました。
「ごくろうさんじゃった。 今、待者に聞いたら聴衆は六人だったそうだな」
「はい」
「松原、お前は何百人でも六人でも、ちゃんと同じように心を込めて話す。よくやったな」
その言葉に、私もまだ若かったから得意になって、
「はい、一人でもおりましたら話します」と申し上げました。
すると間髪入れずに、
「その一人がいなかったらどうする」
「人が一人もいなかったらやめます…………」と答えるや、
「ばかもん!」と。
「わしらが坐禅するとき、人がいなかったら坐禅をやめるか。人のために坐禅するんじゃなかろう、自分のための坐禅じゃ。
お念仏称える人が、人が一人もいないからって念仏やめるか。
お題目唱える人が、人がいなかったらやめるか。
お前は人のためじゃない、自分のために法を説け。
誰も聞いてないと思うか? 壁も柱も皆聞いてるのが分からんのか!」
これには応えました。」
と書かれています。
このことによって、布教の眼を開かせてもらったとよく松原先生は仰せになっていました。
そんな玄峰老師のふるさとから来た青年ということで、大事にしてくださっていたのではないかと思うのであります。
思えば玄峰老師は、お若い頃に、紀州熊野で木こりをなさっていて、その伐った木を筏に汲んで熊野川を流して、私の生まれた新宮市まで運んでいたのでした。
私の家は、その熊野川で鍛冶屋を営んでいました。
鍬でも包丁でもなんでもつくっていたそうですが、筏を組むときに使うかすがいをつくるのも大切な仕事でした。
ひょっとしたら、私の先祖が玄峰老師の筏のかすがいをつくっていたのかもしれないと思うのであります。
そんなことがご縁となって、松原先生と引き合わせてくださったのかとも思ったりします。
小学生の頃から、わたくしは新宮市のお寺に坐禅に通っていました。
中学生の頃から、目黒絶海老師について独参をしていました。
そんな頃、お寺で、玄峰老師の提唱のカセットテープを拝聴していました。
『無門関』の提唱を録音したカセットテープでした。
玄峰老師は昭和三十六年にお亡くなりになっていますので、ご生前にお目にかかることはできませんでしたが、そのお声を聞くことができて感動したものでした。
その録音は、『無門関』四十八則のうちのほんの数則でありましたので、もっと学びたいと思って、玄峰老師の『無門関提唱』を書店で注文して取り寄せて勉強したのでした。
私が生まれてはじめて書店で注文した本が、玄峰老師の『無門関提唱』でありました。大法輪閣の出版でした。
その頃は、注文して二遊間くらいかかったと記憶しています。
それから『無門関提唱』を座右において読み、坐禅に励んだものでした。
かすがいがご縁となったのか、松原先生にも大事にしてもらったのであります。
ご縁というのは不思議なものです。
横田南嶺