すべて他のために
葛谷家というと、葛谷醇一さんの話を思い起こします。
松原先生から、葛谷さんの話は何度もうかがいました。
聞くたびごとに、胸痛む話なのであります。
もっとも葛谷醇一さんのお墓は、岐阜県にあって、松原先生のお墓のそばにあるのは、その分家のお墓なのですが、葛谷という名前を見ると思い起こすのであります。
葛谷醇一さんの話を、松原先生の著書『わたしの航跡』から引用します。
少々長い引用になりますが、煩を厭わずに紹介します。
「従兄弟の葛谷醇一は、幼少のころからわが家で育った、弟同然の仲でした。仏道においては祖来和尚を師とした弟弟子でもあります。
彼は国学院大学を卒業し、私と同じ岐阜の瑞龍僧堂で修行をしておりましたが、その修行中に召集を受け、当時の名古屋師団に衛生兵として入隊しました。
今にして思えば、終戦も近づいた夏の暑い日、彼はひょっこりと名古屋から東京の私を訪ねてきました。
聞けば、いよいよ出征するので外泊許可をもらって来たと言います。
ところが、途中で爆撃を二回も受けたので、 名古屋から二十時間もかかってやっと東京へついた、これでは、一泊すると帰りが心配だからすぐに帰隊する、と汗をふきふき言うのです。
とっさのことなので、なにも土産になる物がありません。ただ、彼は私に似て煎茶が好きでした。
彼が本堂へおまいりをしている間に、非常袋からとっておきの宇治の玉露を彼に分け与えるとともに、別れのお茶を飲み合いました。
そして、帰りの車中で飲むようにと、彼の水筒を引き寄せると、彼はこれを断わって、「せっかくだけど兄さん、台所のお湯か番茶をください」と言います。
私は思わず、「この場になって遠慮するなんて、みずくさいぞ」と不愉快に思い叱りつけました。
「いや、遠慮じゃないんです兄さん。自分たち衛生兵の持つ水筒は、戦友の看護のために持っているので、自分の私物(個人の所有物)ではありません。 戦傷兵や重傷兵の戦友に飲ませるためです。
少量の湯や水でも元気を回復してくれるし、一滴でも瀕死の将兵の唇を、故郷のご家族に代わって湿すこともできるのです」
彼は、私の好意を無にするのをいかにも申しわけなさそうに、
「戦場に限りません。今も途中の爆撃で、多くの地方人(一般国民を指す軍隊用語)が負傷したので、自分の水筒が役に立ちました。
帰りにも空襲があるでしょう。 病人やけが人には濃いお茶や冷水は避ける方がいいのです」
と、台所に立って冷えた番茶を水筒に入れて、そのまま出かけた彼はついに帰りませんでした。
「昭和十九年七月十八日、サイパン島で玉砕戦死」と、たった一行の戦死公報を受けただけです。
番茶の入った水筒を肩にかけて、「お兄さん、長い間お世話になってありがとう。 さよなら」と挙手の礼をして去った醇一の後ろ姿が、まだ私のまぶたに残っています。
私は、彼の遺骨を収集していないのを、すまないと思います。 サイパンに置いたままではかわいそうです。
今の私にできることは、たとえ旅をしていても毎月十八日の命日に、出先であっても彼の好きなお茶を供え、読経することだけです。
そして「衛生兵の水筒は、自分の私物ではない」と言いきった、彼の最後のひと言は忘れてはならない、と誓うのです。」
という話なのであります。
おいくつだったのかは分かりませんが、まだお若かったことでありましょう。
生きていればきっと立派な禅僧になられたであろうと思います。
このような方は大勢いらっしゃったのだと察します。
松原先生も、その後昭和二十年の五月に召集を受けられたのでした。
三十九歳でいらっしゃいました。
外地に行くことなく終戦を迎えたのでしたが、先生は、栄養失調から病に伏して、肺浸潤を患われたのでした。
八月の終戦の日が近づくとこんな戦争のはなしを思い起こします。
そんな非常事態の中でも人のためを思って生きようとされた葛谷さんのお心を尊く思います。
それから、松原先生からよくうかがったのは、おノブさんの話であります。
おノブさんというのは、十五歳で失明してしまったマッサージ師の方です。
戦後よく松原先生のマッサージに通ってこられていたのでした。
ある日、おノブさんが松原先生に得意そうに「外灯をつけたんです」と言ったそうです。
戦後早々に、マッサージ師の稼ぎで電気を引くといったら大変なことだと思った松原先生は、目が見えないのになぜそんな無駄なことをしたのかと聞いたのでした。
するとおノブさんは、
「家の前は細い路地でバス通りにつながる近道なので、通る人がとても多いのです。狭くて暗い道で傘をさすこともできなく、
雨の日はぬかるみになってしまいます。私はこの通り目が見えず暗闇でも大丈夫。
家の中より外に電気があったほうが、そこを通る人が歩きやすいでしょう。
そこへ外灯をつけたらね、路地を通る人が大きな声で『おノブさん、ありがとう』と礼を言ってくれるんです。
『助かるよ』って。私、うれしいわ」と答えたというのであります。(『日本人への遺言』マガジンハウスより引用)
松原先生は、自分が逆境にありながら、人の為にできることを考えて実行する彼女は素晴らしいと語っておられました。
坂村真民先生に「すべて他のために」という詩がございます。
すべて他のために
花を咲かせる草と
実をつける木とが
鳥に話しているのを
じっと聞いていました
わたしは酉年生まれなので
彼等の言葉はわかるのです
わたしは聞き終わった時
自分が恥ずかしくなりました
もっともっと他の人のために
この身を捧げねばならぬと
思ったのです
すべて他のために
それが彼等たちの
願いだったのです
そんなことを思い起こしていた墓参でありました。
横田南嶺