ほっとするひととき
まず、朝刊を開くと、毎日新聞の日曜くらぶには、心療内科医の海原純子先生の連載、新・心のサプリがあって、まずはその連載を拝読しました。
これは日曜日の朝の恒例のことであります。
今週の「新・心のサプリ」の題は、「ほっとする瞬間が大切」です。
「実際に会ったことはなくてもテレビや報道で目にしている人は身近に感じるものだ」という一文から始まりました。
これは安倍元首相の話なのであります。
今回の安倍元首相の事件について、海原先生は「多くの人にとり衝撃だったことは否定できない」と言います。
「政治的な信条や立場の違いを超えて、不本意な形で人生を奪われたことに対する怒りや残された家族への共感が生まれるのは自然なことで面談をしていてもそうした声を聞くことが多かった。」
というのです。
そして海原先生は、
「コロナ禍に続くウクライナでの戦闘、円安など私たちの環境は不安になる要素が多く、心のゆとりを失っていらだっている人が増えている感じがする。暑さや不安定な天気もストレス要因となる。」と書かれています。
鬱々とした気持ちになるのは無理なことではないのです。
そういう時なのだと思って生きることが大事でしょう。
無理にカラ元気を出す必要はないと思います。
そこで「今は、大人が外部環境に流されず自分の気持ちを整える必要がある時期だと思う」というのです。
海原先生は、こんな時に気持ちを整えるには、ほっとする瞬間を大事にすることだと書かれています。
それはどんなことかというと、例えば海原先生の場合、
「朝、少し早く起きたら家の前の運河にかかる工事中の鉄橋にシラサギが2羽舞い下りるのを見ることができた。プランターのバジルがすくすく伸びて大きくなった。」というようなのが、「小さなほっとする瞬間」だというのです。
そうだな、ほっとする時間というのは大事だなと思って、朝刊の本紙を開くと、小池陽人さんの「僧侶・陽人のユーチューバー巡礼」という連載記事が大きく掲載されていました。
つい先日お目にかかった小池さんでありますが、こうして毎日新聞の紙面でもお目にかかると、小池さんのお写真を拝見するだけで、こちらはほっとするものであります。
今回の対談相手は、サッカー元日本代表の戸田和幸さんです。
といってもサッカーについては全く何も存じ上げない私は、戸田さんという方がどんな方か分かりません。
きっとすごい方なのでしょう。
題は「伝える」思いより大事なことというものです。
この中で戸田さんは、「伝えることが大事なんじゃなくて、伝わることが大事だと僕はずっと痛感して」来たというのです。
「伝える」と「伝わる」、この違いについては、村上信夫さんからもいろいろと教わっていて、いつも考えさせられることであります。
戸田さんも「選手の時に、自分の思いが強すぎて相手に届かないボールを投げ続け」たりしたことがあったと書かれています。
「伝える」というのは、こちらから一方的に伝えようとしてしまうことが多いのです。
そうすると、「伝えた」つもりが、なにも「伝わって」いないことになってしまうことがあるのです。
小池さんも「お寺でイベントを開きますが、何人来たかじゃなく、何人に届いたかが大事です」と語ってくれています。
人が多く集まればいいというものではないのです。
最後に小池さんが、
「一番印象に残ったのは、戸田さんの、サッカーが好きでこの魅力を伝えたいという情熱です」と書かれていて、
そして「私たちも生きる情熱を失わないことが大事です。
周りと比べる必要はありません。
きのうより今日、今日よりあしたと一歩でも自分を良くしよう、豊かに生きようという情熱さえあれば、私たちは一生成長し続けることができると感じました」と書いてくださっていました。
小池さんの明るさもこんな情熱を持ち続けているところから来ているのだと思いました。
小池さんの記事を拝読して、またほっとするひとときでありました。
それから、二十四日は建長寺の開山忌で、私ども円覚寺の者も参列させてもらいました。
昨年と一昨年とお参りできなかったので、三年ぶりであります。
当初は例年通り開催の予定だったらしいのですが、またコロナ感染者が増えてしまい、急遽大幅に行事を縮小して行われました。
建長寺の方々はギリギリになっての予定変更でたいへんだったろうと思います。
それでも三年ぶりに建長寺様にお参りすることができ、変わらぬ建長寺さまのたたずまいにしばし身をおいて、これもまたほっとするひとときでありました。
行事が縮小されたので、随分早く寺に戻りました。
雲一つない良い天気なので、梅を干しました。
例年、自分でわずかばかりですが、梅干しを漬けています。
やはりたくあん漬けや梅干しを漬けるのは、禅僧としての原点と思って自分で行うようにしています。
今年もよく漬かっていて天日に一人で干しました。
例年と変わらぬようにできて、これもまたほっとするひとときでありました。
午後からは、近くの八雲神社の御神輿が出ることになっていました。
御神輿が、円覚寺の前を通る時に、管長が出迎えるという習慣があります。
法衣に着替えて白鷺池のところで、御神輿を迎えました。
一昨年は中止、昨年は御神輿が出たものの、トラックに乗せて走るだけでしたので、御神輿を人が担いで通るのは実に三年ぶりなのです。
昨年がトラックに積まれた御神輿を迎えるだけでしたので、寂しい思いがしたのですが、やはり御神輿は人に担がれてこそいいなと、変わらぬ御神輿やお囃子の音色にこれもまたほっとするひとときでした。
ところが、御神輿が円覚寺の前を通るとすぐに円覚寺の駐車場に入ってゆきます。
例年ならばそのまま東慶寺に向かってゆくところ、どうしたのかと思って見ていると、御神輿を担ぐのは円覚寺までのみで、そのあとはまた昨年のようにトラックに乗せて建長寺まで行って帰るのだということでした。
コロナ禍やまぬ中ですので、いろいろと考えた末のことなのでしょう。
御神輿を担ぐ棒を外してトラックの乗せるのですが、なかなかその棒が外れずに時間がかかっていました。
その様子をずっと見ていて、きっと御神輿もトラックよりも人に担がれたいのだろうなと思いました。
御神輿も 車乗る世に なりにけり
という下手な川柳を思いつきました。
それにしても日曜日は朝からほっとするひとときをいくつも味あわせていただきました。
横田南嶺