ありのままの自己
小川先生には、湯島の麟祥院で、毎月臨済録の勉強会をお願いしてきました。
その会は、七月と八月はお盆で休会だったのですが、小川先生の特別のご好意で、うちの修行僧の為に特別講座を開いてもってきました。
一昨年は開催できず、昨年はオンラインで講義をしていただき、今年は、三年ぶりに対面でご講義をしていただいたのでした。
全くのはじめて学ぶ者の為に懇切丁寧な講義をしていただきました。
修行僧といっても、花園大学や駒澤大学で仏教や禅を学んでから来る者はむしろ少なく、一般の大学で勉強して来る者が多いので、仏教学や禅学の初歩から教えてゆかなければなりません。
小川先生のご講義はとても分かりやすいので、今年もお願いしたのでした。
今回は「唐宋禅宗思想小史」と題して講義してくださいました。
九十分の予定でしたが、小川先生は二時間を超える熱の入ったご講義をしていただきました。
実にありがたいことでありました。
円覚寺にお越しになった小川先生は、汗びっしょりで、どうなされたのかと思ってうかがうと、円覚寺で講義する前に、東慶寺に行って、釈宗演老師と鈴木大拙先生のお墓にお参りされたというのでした。
頭の下がることであります。
講義は初期の禅宗、東山法門と呼ばれる教えの解説から始まりました。
達磨大師から五代目の祖師が五祖弘忍禅師で、その五祖の門から神秀禅師と慧能の二人がでました。
もともと神秀禅師が一番の後継者だったのですが、慧能禅師を六祖として今日に到ります。
この神秀禅師の系統の教えを東山法門とか北宗と呼んで、太陽と雲、鏡と塵の喩えで説明してくださいました。
太陽が仏さまの心、仏性であり、雲が煩悩です。
太陽は常に光り耀いているのですが、雲に覆われていて見えないのです。
そこで雲を払えば太陽がはっきりするのです。
仏さまの心がみな具わっているけれども、煩悩に覆われて見えないのです。
そこで煩悩を払って仏さまの心があらわになるように修行するという教えであります。
鏡と塵も同じなのです。
本来鏡のようにきれいな心ですが、塵ほこりがついているのです。
鏡は仏さまの心、仏性で、塵ほこりが煩悩なのです。
鏡に塵ほこりがつかないように、常によく磨いて修行しなさいという教えであります。
それに対して、六祖慧能禅師から馬祖禅師へと受け継がれた教えは、大きく展開しました。
六祖のお弟子が南嶽禅師でそのお弟子が馬祖禅師であります。
馬祖禅師の教えを、小川先生は分かりやすく次のようにまとめてくださっています。
一「即心是仏」、
二「作用即性」、
三「平常無事」の三点になると言います。
それぞれどういうことかというと、
小川先生は
「一「即心是仏」は、自らの心がそのまま仏であるということ。
二「作用即性」は、自己の身心の自然なはたらきはすべて仏性の現れであるということ。
三「平常無事」は、人為的努力を廃して、ただ、ありのままでいるのがよい」
という事になると解説してくださいました。
しかし三つ別ものではなく、小川先生は、
「説明の便宜のためにかりに三点に整理はしたが、実際にはこれらはひとつの考えである。
すなわち、自己の心が仏なのであるから、自身の営為はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、と。
要するに、あるがままの自己の、あるがままの是認、それが馬祖禅の基本精神であった。」
と解説してくださいました。
ここで、おにぎりの例が出てまいります。
東山法門、北宗の禅は、梅干しおにぎりだというのです。
ご飯のなかに、梅干しが埋まっているのです。
ご飯を除くと中に梅干しが現れるのです。
煩悩を取り除くと仏さまの心があらわになるのです。
それに対して馬祖禅師の教えは、五目おにぎりだというのです。
要するにご飯と具は分けられないのです。
ご飯の中に具が混じり合っているのです。
仏性は、私たちの日常の心の中に溶け込んでいるのであります。
即心是仏の「即」という字は、その下にある心を限定的に強く定義するもので、ほかならぬあなたの心が、いまの心こそがまさに仏であると強調しているというのであります。
仏さまの心は私たちの全身にくまなく行き渡っているのです。
馬祖禅師の言葉によれば、
「一切衆生は無量劫よりこのかた、法性三昧を出ず、長に法性三昧の中に在りて、著衣喫飯し、言談祗対す。六根の運用、一切の施為は、尽く是れ法性なり」といって、法性三昧とは仏性を指しますので、仏さまの心の中でご飯を食べたり、着物を着たり、しゃべったりしているのであって、私たちの行動のすべては仏性のあらわれなのだというのです。
馬祖の禅の教えが日本で再現されたかのように感じるのが盤珪禅師なのであります。
盤珪禅師の
「みなが仏にならふと思ふて精を出す。
それ故眠れば、しかりつ、たゝいつするが、それはあやまり。
仏にならふとせうより、みな人々親の産付たは余のものは産付はせぬ、
只「不生の仏心」一つばかり産付た所で、常に其「不生の仏心」で居れば、寝りや仏心で寝、起りや仏心で起て、平生活仏でござつて、早晩(いつ)仏で居ぬといふ事はない。
常が仏なれば、此外又別になる仏といふてありやせぬ。
仏にならふとせうより、仏で居るが造作がなふて、ちかみちでござるわいの。」と
という言葉を引用してくださいました。
仏になろうとするよりも仏でいることがよけいな造作がなくてよいというのです。
実に馬祖禅師の教えそのものであります。
馬祖禅師や盤珪禅師の教えは、すばらしいものなのですが、ありのままの是認にはいろんな問題がございます。
ひとつは努力しなくなることです。
恐らくそのような弊害もあった為か、馬祖禅師の弟子からもこの馬祖禅の批判が出てきました。
こういうところも馬祖の素晴らしいところだと小川先生は仰いました。
それが石頭禅師の系統の教えになるのであります。
そしてそれらが、やがて宋代になって看話禅というように、一見意味も論理も通用しないような問題を与えて思慮分別を断つ修行をするように発展していったのでした。
本来ありのままで仏であったのが、煩悩妄想のためにそのことに気がつかない不覚の状態になっているので、禅問答や公案を用いて修行して始めてそのことを悟り、本来ありのままで仏であったことに気がつくというのが禅の修行なのであります。
ありのまま、そのままでよいという訳ではないのです。
いろんな修行や体験を通じてありのままの自己が仏だと気がつくのです。
そんな唐代から宋代への禅宗の歴史を分かりやすく解説してくださいました。
横田南嶺