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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.26
今日の言葉

無の豊かさ

致知出版社の企画で、曹洞宗の青山俊董老師と対談することとなりました。

青山老師のことはよく存じ上げていますし、著書もたくさん拝読していますが、改めて最近頂戴した書物を読み返していました。

そこに「無」についての深い教えをいただくことができました。

禅では、よく「無」ということを説きます。

私どもの臨済の修行では「無になれ」「無になりきれ」ということをやかましく説いています。

しかしその「無」というのは、有無の無でもなく、単になにも無い虚無でもないというのです。

そのあたりのことを鈴木大拙先生は、その著『東洋的な見方』のなかで、

「禅の無には消極性・否定性・寂滅性・破壊性などというものは、髪の毛一筋ほども、見つからぬ。無限の積極的可能性を有っている」と書かれていて、この言葉は私もよく紹介しています。

『般若心経』を読んでいても、「無眼耳鼻舌身意」とか「無色声香味触法」とか、あるいは「不生不滅、不垢不浄、不増不減」というように、「無」や「不」の字がたくさん出てきます。

この「無」について、青山俊董老師は、あるときに余語翠厳老師が、

「無の眼耳鼻舌身意あり、無の色声香味触法あり」

と仰せになっていたことを書かれています。

青山老師の『般若心経ものがたり』には、

余語翠厳老師の言葉というのは、「ほの暗い禅堂のしじまから、天来の声のようにこの一句が聞こえてきた」というのであります。

そして「それは「深く、温かくそして限りない静けさを秘めたその声と言葉に、私は天地がひっくり返るほどの驚きと喜びを覚え、思わず耳をそばだてた。」
というのであります。

よほど深い感動を味わい、心に残っているのでありましょう。

それは「昭和四十七年六月。 余語老師が大本山総持寺の後堂という重責におられた頃の、伝光会摂心に参じたおりのこと。 老師六十歳、私は三十九歳であったと思う。」と書かれています。

そこからご縁が始まって青山老師は、

「以来、御遷化になるまでの二十五年間の法益は、「無の眼耳鼻舌身意あり」の縦横無尽の展開といってよく、そしてそれはそのまま道元禅師の『般若心経』の受けとめでもあったのである。」

と書かれています。

青山老師は

「無とか空とかいう言葉を、われわれが耳慣れた言葉に置きかえると仏性とか真如となる」と書かれています。

空ということと、仏心や慈悲ということは同義であると、以前にも書いたことがありました。

六祖慧能禅師が、本来無一物と仰せになったことについても、

「「本来無一物、いずれの処にか塵埃をひかん」と読まれてきた。

それを「本来無の一物、いずれの処にか塵埃あらん」と読みかえられた。

何という深い読みであろう。」

と余語老師の炯眼を称えられています。

どういうことかというと、青山老師は

「無限定の仏の御命、御働きが、限りない展開を見せて、眼耳鼻舌身意となり、色声香味触法となり、その一物としての私であり、あなたであり、一切なのである。つまり、すべてが仏性の展開としての一物なのだから、塵や埃としての否定すべきものなど初めからないというのが、この読み方である。」

というのであり、

そしてそれは、

「従来の「本来無一物」は全否定的表現であり、「本来無の一物」は全肯定的表現であり、究極は同じことの説相の違いにすぎないのであろうが、私にとっては、目のウロコを落としていただいたほどの一転語であった。」

と書かれています。

「無」について、青山老師は諸橋轍次先生の『大漢和辞典』で説明されている意味についても参照されています。

「無」にどういう意味があるかというと、

「まずは「ない」の一般的意味をあげ、次に「混然として区別のない万物の根源となる道」として、「道家の語」と注を入れ、更に「ゆたか」の意味を持ち、「草木のゆたかに茂ること」という説明を加えている」

というのであります。

さらに「新村出氏は『広辞苑』の中で、「有と対立する相対的意義における無ではなく、有無の対立を絶し、かえって有そのものをも成立させているような根源的、絶対的、創造的なもの」と説明している。

諸橋氏の“限定されない万物の根源〟と通うものが感じられ、インドにおける「空」の中国的展開が「無」であったことに気づく」

と指摘されています。

そうなってくると、

「更には「仏性」とか「真如」という言葉で表現しようとしているものと同じであること、しかも「仏性」とか「真如」という言葉を借りて表現すると、人々はそこに「仏性」という、「真如」という、梅干しの種みたいな何かを想定したくなる。
その危険を防ぐためにこの道の先賢たちは、「無」とか「不」とか「非」という否定的な言葉を借りて、そのものを表現しようと苦心されたのであろう。

いずれにしても「無」という言葉が持っているほんの一部の意味しか知らず、そのわずかな知識にしばられて動きのとれない自分であったことに気づかせていただいたことであった。」

と青山老師は書いてくださっています。(『般若心経ものがたり』から引用)

また青山老師は、

「例えば「無常」「無我」という天地の道理は、永遠不変の真理であり、これを仏教徒は「おはたらき」と呼んだり、似人化して「如来」とお呼びする。
また私はよく春にたとえる。春という働きが、具体的には梅や桜を咲かせ、 実を熟させ、秋には落葉させるというように。 人も生まれ、成長し、老い、死んでゆくように。」(『さずかりの人生』より)

というように、「無常」「無我」ということも、「無」「空」と同じように、如来であり、仏性であり、それは大いなる命、仏の御命だと説かれています。

こういう受け止め方は、大乗仏教、特に禅の特徴であります。

無に積極的意味を見出し、無になることから、無限の力、豊かさがあふれてくるのです。


 
横田南嶺

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