生死は仏の御命
今回は、「舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。」という処を講義しました。
訓読しますと、
「舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。
色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。」となります。
岩波文庫の『般若心経 金剛般若経』にある中村元先生と紀野一義先生の訳によれば、
「シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象であり得るのである。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして、) およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。」
となりますが、なかなかこれを読んだだけでは理解でき難いものです。
四月と五月にそれぞれ一度ずつ講義して、六月は休んで七月になりましたので、いままでのおさらいから始めました。
六月は、大学の百五十周年の記念行事があって、授業を失礼したのでした。
まずはお釈迦様の言葉『ブッダのことば』(岩波書店)にあるスッタニパータ一一一九番の
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。」
という言葉を紹介しました。
自我に固執する見解こそが、私たちを苦しめている一番のおおもとであります。
自我が本来空であるのに、実在するものであり、実体のあるものだと思い込む無知から、執着や憎悪などの誤った行動を引き起こし、その結果苦しむのであります。
それゆえ、お釈迦様の教えでは、無常であり、無我であるとことをよく観察したのでした。
無常はうつりかわること、無我は常一主宰の否定です。
常は、常に変わらぬこと、一は単独で成り立つこと、主宰は思うままになることです。
無我はそれらの否定なのです。
そんな基本の話をしておいて、須磨寺の小池陽人さんの言葉を紹介しました。
「空」とはなんでしょうと題して、小池さんは、やさしく、
「人と比べて、どうして私はこんなこともできないのだろうと、自分を無価値に感じてしまうことはありませんか。
奈良の薬師寺の高僧・高田好胤先生は「空(くう)」を「偏らない心、こだわらない心、とらわれない心」と説きました。
人と比較して落ち込んでしまうときこそ、その三つの心を持つべき瞬間ではないかと思います。
「自分はこうでなくちゃいけない」と理想に押し潰されそうになったら、立ち止まって考えてみてください。
あなたの本当の価値は、人と比べて決まるものでしょうか。
「空」とは自分の物差しを疑い、自分にとって本当に大事なものを見つける旅でもあるのです。」(『自律神経を整える 般若心経 なぞり書き練習帖 』(扶桑社ムック)より)
という優しく説いてくれている小池さんの言葉を学生さん達に紹介して、空を学ぶことに意味があると話をしたのでした。
その日は、土砂降りの雨で、講義の途中でも何度か皆さんの携帯電話から大きな警報の音が鳴り響きました。
それでもどうにか講義を続けることができました。
そこで五蘊について復習しました。
五蘊は色受想行識の五つです。
色は感覚器官を備えた身体、受は苦・楽・不苦不楽の三種の感覚あるいは感受、想は、認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用、行は、能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求、そして識は認識あるいは判断のことです。
そして「人間という存在は、この五つの要素が、ある特定の法則にしたがって作用しあい、関係しあうことによって存在している。」(『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』)という佐々木閑先生の言葉を紹介しました。
そこまではブッダも説かれた教えでありました。
しかし般若心経では、色受想行識も空であると説きます。
五蘊という五つの要素によって作り出された世界は空だというだけでなく、そのように認識しているお互いも空だというのです。
これは客観的世界も主体的世界もすべて空性だというのですから、空の対象的理解を超えています。
この辺は理論的な解説は難しくなります。
色は個別であり、特殊であり現象です。
空は平等であり、普遍であり本質なのです。
そこで道元禅師の「生死は仏の御命なり」という言葉を引用して説明しました。
生死とは、限りある、この肉体を持った活動体であります。
有限な現象であります。
しかし、それは、空であり普遍なる仏の命の現われなのであります。
仏の御命は、それ自体で存在するのではなく、空は色に異ならずであって、具体的な身体をもった生死として現われているのであります。
そしてその空なる心こそが、仏の御命であり、私たちの本質なのであります。
このへんが難しいところです。
そこで、この空の心を表現した小笠原秀実先生の「般若心経意」を紹介して終わりました。
般若心経意 小笠原秀実(『小笠原秀実・登』八木康敝(リブロポート))
形あるものは すべてこわれてゆく
花のように 人のように 楼閣のように
されど形なきものは 虚空のように
大空のように いつまでもこわれることを 知らない
形ある すべてを棄てた心
変りゆく すべてを離れた心
それが 空の心である
碧の大空のように
空の心は限りもなく 涯もなく
増えることもなく 減ることもない
こわれゆくこの世のすべてを離れるが故に
生きることにも
迷わず つまずくことにも惑わず
唯すべての畏れを離れる
若葉にしたたる 日の滴が
すべてを包み すべてを はぐくむように
空の心は 何物をも許し 何物をも
育ててゆく それは限りなき楽しみであり
無我の明さである
朗らかな空の心よ
暖かく 滴たる空の光よ
空の心、壊れることのなく、すべてを包む広い心、そんなところを少しでも感じ取って欲しいと思って講義を終えてきました。
横田南嶺