至れり尽くせり
青山老師は、昭和八年のお生まれで、数え年で九十歳であります。
愛知県一宮市にお生まれになり、五歳の時に長野県塩尻市の曹洞宗無量寺に入門され、十五歳で得度されました。
駒澤大学で学び、愛知専門尼僧堂で修行されています。
四十三歳で、愛知尼僧堂の堂頭にご就任なされています。
以来今日まで現役の老師さまでいらっしゃいます。
実に仏道ひとすじの老師さまでいらっしゃいます。
著書はたくさんあって、私も青山老師の書物から多くの事を学ばせてもらっています。
近年、脳梗塞や心筋梗塞などの大病をなされて、少々お体がご不自由であるとうかがっていました。
対談は、こちらから老師のいらっしゃる愛知尼僧堂におうかがいして、行われました。
青山老師と私のご縁は、長年書物などでこちらから一方的に学ばせていただくだけでありましたが、二〇一九年に青山老師が出家なされたお寺である長野県塩尻の無量寺で講演をさせていただきました。
八月にその無量寺で、九十分の講演を三回行ったのでした。
「禅の集い信濃結集」という会でありました。
多くの方が、無量寺で寝泊まりして行われていました。
無量寺は、尼寺でありますので、宿泊は女性のみでした。
講座は男女問わないのですが、それでも女性が多かったと覚えています。
広い本堂に布団を敷いて皆お休みして、みんなで食事をしていたのでした。
なんとも尊い会だと思っていましたが、こういうことはコロナ禍になると難しくなってしまいます。
無量寺で三回の講演を終えましたが、青山老師はその講義をすべて最前列でお聞きになっていました。
そして講演のあと、すぐに、来年も話をして欲しいと頼まれたのでした。
ところが、その明くる年が二〇二〇年で、コロナ禍の為に中止、明くる二〇二一年もまた中止、今年こそと頼まれて、こちらも予定に入れていましたものの、やはりこの夏も中止になってしまったのでした。
それでも来年こそと、青山老師から懇切丁寧なお手紙を頂戴していたのでした。
そんな手紙のやりとりをしていたところに依頼された対談でありました。
私も直接お目にかかるのは、三年ぶりになります。
ご体調のことを心配していましたが、杖をつき、侍者の方に手を引かれながらも颯爽と歩いて室内にお入りになったのでした。
立ったり座ったりなさるのがたいへんのようにお見受けしましたので、とっさに判断して立ったままご挨拶をさせてもらいました。
こちらが、坐って礼をすれば、老師も坐らなければならず、それはたいへんだと思ったのでした。
対談は椅子に坐って行われましたが、お話になっている様子は実にお元気そのもので、とても安心しました。
ご高齢になって大病をして入院なさったりすると、どうしてもお体が弱ってしまいますが、さすが青山老師は、衰えを感じさせないのでありました。
逆にこちらが、「痩せられましたか」と心配されたほどで、これはコロナ禍になって体重を少しばかり減らしたのですと申し上げました。
対談のはじめに近況をうかがいました。
青山老師は、まず「四運を一景に竸う」という道元禅師のお言葉を紹介してくださいました。
道元禅師の『典座教訓』にある言葉であります。
「春声にに引かれて,春澤に游ばず。秋色を見ると雖も,更に秋心無し。
四運を一景に竸ひ,銖兩を一目に視る。」
という言葉があります。
春の景色にこころ奪われて、春の沢に遊ぶことをせず、秋の景色にこころ引かれても、秋の感傷にふけることはない、四季のうつろいをひとつの景色として受けとめ、一銖一両の重さも比較せずに受け入れるという意味であります。
青山老師は、
「四運というのは、季節で言ったら春夏秋冬になり、人生で言ったら生老病死になる」と説明してくれました。
生老病死とは、生まれては年をとり、病を得て、やがては死を迎えることです。
人生は年と共に移り変わっていきます。
それらを一景として受けとめるのですから、それは「同じ姿勢」で受けるという意味です。
生まれたことも老いることも病も死も、健康も成功も失敗も、すべて同じ姿勢で受け止めるということだと説いてくださいました。
「人生なんていろいろあったほうが豊かでいい、人生の調度品を揃えるような気で楽しむ」と仰せになっていました。
もっとも常人であればとても乗り越えられないような大病なのですが、そのように病も一つの景色として受けとめておられるのであります。
そしてその次に説かれたのが、「同事」ということでありました。
同事というのは、道元禅師も大切に説かれた菩薩の四摂法というのがあって、その一つであります。
四摂法というのは、人々を導きすくってゆくための四つの教えであります。
それは布施、愛語、利行、同事の四つであります。
布施は施し与えることです。
愛語とは愛情のある言葉、思いやりのある言葉をかけることです。
利行は、他人の為に行動することです。
この三つはわかりやすいのですが、同事はなかなか難しいものです。
青山老師はこれを相手と一つになるのだと仰っていました。
病の人をお見舞いするのに、あまりにも健康で元気な人がお見舞いしても、却って相手を苦しませることにもなりかねないと仰せになっていました。
こういう病を得たおかげでようやく人さまをお見舞いできるようになったというのであります。
人の身になることができるようになれたと仰っていました。
そこで盤珪禅師の話にあるでしょうと仰せになりましたので、私は、すぐにあの話かと思って、盤珪禅師の話をしました。
ある盲人の方が、盤珪禅師について興味深いことを言われました。
世間の人は必ず、お祝いの言葉を述べる時には、心のどこかに愁いの思いが隠れている。
どこかに妬みの思いが隠れているというのです。
お悔やみの言葉を述べる時には、心のどこかに、「自分でなくてよかった」という喜びの思いが隠れている。
だいだい人間の思いというのはそのようなものです。
自分は、盤珪禅師の声を聞いていると、どんな人に対しても、その人がどんな状況であろうとも、けっして声が変わることはなかったというのです。
相手が悲しい時には、こちらも心から悲しむ、相手が喜んでいる時には、心から喜ぶというのです。
これが同事なのだと青山老師は仰せになりました。
そんな貴重な話から始まった対談は、予定されていた時間は二時間でしたが、なんと三時間半に及びました。
それでも少しのお疲れのご様子もなく、しかもお心のこもったおもてなしをいただき、至れり尽くせりとはこういうことを言うのだと思い感動の対談でありました。
横田南嶺