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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.18
今日の言葉

空と慈悲

般若心経では「空」ということが説かれています。

その「空」と「仏心」や「慈悲」とはどういう関係にあるのかと質問を受けました。

「空」とは「固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。うつろ。」を言います。

「空虚、欠如、ふくれあがって内部がうつろ」などを意味するのです。

岩波書店の『仏教辞典』には、

「般若経は、仏陀の本質を般若あるいは一切智とも呼ばれる智慧に見た。

同経は、悟りや涅槃(ねはん)をも含むあらゆるものごとに対する無執着のあり方を<空>と呼び」

と書かれているように、「空」とは単に何かが無いことをいうのではなく、悟りや涅槃をも含むものとして説かれるようになっていったのでした。

更に『仏教辞典』には、

「龍樹が「<空>は無に等しいのではなく、すべての事物が無自性(むじしょう)にして縁起することを意味すると説いた」と説かれています。

自性がなく縁起することが空であるというのです。

中村元先生の『現代語訳 大乗仏典1『般若経典』』(東京書籍)には、

「空の教義は虚無論を説くのではない。

そうではなくて、空はあらゆるものを成立せしめる原理である。

それは究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものである。もろもろの倫理的価値を成立させる真の基底である」と説かれています。

「空」ということにもっと積極的な意味を見出しました。

そして更に、

「慈悲と空とは、実質的には同じです。

哲学面から見ると空ですが、実践面からいうと慈悲になります。

われとなんじが相対しているとき、そこに隔てがあるかぎり、われとなんじの対立はいつまでも残っています。

けれど、その根底にある空の境地に立って自分の身を相手の立場に置いて考えるようにすると、そこから、ほんとうの意味の愛が成立します。

それを仏教では「慈悲」とよんでいます。

「慈悲」ということを、仏典ではまれに「愛」ということばで表現している場合もありますが、愛の純粋化されたものが慈悲である、ということがいえます。

世俗の愛は、いろいろな要素がまといついています。

純粋の愛というものは、不純物がありません。

われわれが空の境地を体得すると、よい行いがおのずから現れでてきます。」

と説かれていて、空からこそ慈悲がわいて出てくるのであり、空と慈悲とは同義だというのであります。

実際に坐禅修行も深くなさっていたという片岡仁志先生は、『禅と教育』の中で、

「絶対無の自覚というものが、有のもとです。

絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。

すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。

これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。

感情移入というような心理学的な説明の仕方もあるでしょうけれども、その事柄それ自体は、そういう説明よりもっともとになるものです。

感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。

その繋がりが、実際は愛というものの根本です。

われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。

自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。

他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。

絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。

そういう智即愛というのでないと、本当の愛にはなりません。」

と説かれているのです。

鈴木大拙先生が円覚寺で坐禅修行した折のこと、

「臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明かりの中の松の巨木と自己との区別をまったく忘じ尽くした、「自他不二」の、天地と一体の自己を体得したのである。」

と『世界の禅者-鈴木大拙の生涯ー』に書かれていますが、こういう体験が空であり、空からこそ慈悲が顕わになるのです。

そんなはたらきが、『東洋的な見方』のなかで

「慈悲は行動の原理であるから、けっして人をして閑坐せしめることではない。

四苦八苦の娑婆の真中へ飛び出て、堪え難きに堪え、忍び難きを忍び、刻苦精励して、人間のため、世界のため、何か大慈大悲の仕事を行ずるのである。

そうしてその行動は報いを求める行動でない。

無目的の目的で働くのである。これを無功用行という。自由性の発動である。」

と説かれているのです。

そこを大拙先生は、

「禅の無には消極性・否定性・寂滅性・破壊性などというものは、髪の毛一筋ほども、見つからぬ。」(『東洋的な見方』より)と言っています。

空の体験は、自ずから慈悲という行動となって積極的に現われてくるのであります。

妙心寺の管長も務められた西片担雪老師は、その著『無門関提唱』の中で、

「…趙州は無と答えた。「何も思わぬは仏の稽古なり」何も思わぬ、つまりは無心なるのは仏様の稽古じゃと。

その仏心とはすべてを包み込む大きな慈悲心。

みなはわけも分からず「無」「無」言うておる。

馬鹿みたいに「無」「無」と言うておるけれどもじゃ、すべてを包み込みすべてを救う大慈悲心。これが無である。」

と喝破されているのであります。

空と仏心と慈悲とは通底しているのであります。

 
横田南嶺

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