はたらくことの尊さ – 作務 –
百丈禅師の語録の中には、
「師およそ作務に労を執るに、必ず衆に先んず。
衆皆、忍びず。密かに作具を収さめて、而して之を息(や)まんことを請う。
師曰く、吾れ徳無し。争(いか)でか合(まさ)に人を労すべけん。
既に徧(あまね)く作具を求むるも獲ず、亦た食らうことを忘ず。
故に、一日作さざれば、一日食らわずの語有って、寰宇に流播す。」
と書かれています。
百丈禅師は、いつも毎日若い雲水達と畑仕事などの作業をしていて、しかも必ず皆より先に出ては励んでいました。
寺の僧たちは皆、申し訳ないと思って、百丈禅師の畑仕事の道具をかくしてしまいました。
そうしましたら百丈禅師は「自分のような者には徳がないのに、どうして人さまにはたらいてもらってばかりでいいのだろうか」と言って作務の道具を探しました。
探しても見つからずに、食べることも忘れてしまっていたというのです。
そこから一日作さざれば一日食らわずという言葉ができて、世に広まったというのであります。
百丈大智禅師語録には、春秋九五と書かれていますので、たいへん長命でした。
お釈迦さまは、仏弟子たちには、農作業を禁じられました。
これはひとえに殺生をしてしまうからでありました。
どうしても畑仕事をすると、地中の虫などを殺してしまうことがあるものです。
殺そうと思わなくても殺してしまうことがあるので、農作業を禁じられていたのでした。
とりわけお釈迦さまの同時代にジャイナ教という教えがあって、こちらのジャイナ教の教えでは不殺生が徹底されていたということであります。
「出家者は路上の生物を踏まぬようにほうきを手にする」と言われていて、道を掃きながら歩くとも言われています。
ほうきは、座る前にはその場に虫がいないか、払うための道具なのだそうです。
また飛んでいる虫をあやまって飲み込まないようにマスクをつけるとも言われています。
それほどまでに不殺生を徹底していた教えがあったこともあって、お釈迦さまは農作業を禁じられていました。
修行僧たちは、托鉢で得た食事のみで暮らしていたのでした。
それが中国に仏教が伝わって、おそらく僧侶が増えたことなどが原因となって、托鉢だけではまかないきれなくなったのだろうと察します。
そこで禅僧たちは、禁戒を破ってあえて農作業をするようになりました。
馬祖のお弟子の南泉禅師には、鎌で草刈りをしている問答が残っています。
そして、この労働を作務と称して、大きな意味をもたせるようになってゆきました。
小川隆先生の『禅僧たちの生涯』(春秋社刊)にも、「作務」は一人ないし少人数でやる個別の作業で、全員もれなく総出で行う共同作業を「普請」と言ったと書かれています。
そして更に小川先生は、
「この「普請」「作務」が禅宗の「清規」の顕著な特徴となっています。
インド以来の「律」の規程では、出家者は農耕などの生産労働・肉体労働が禁じられていましたが、禅宗の清規ではそれ自体が仏作仏行として大いに肯定されるのです。
必要悪として許容されるというのではありません。
禅宗においては、日常のもろもろの仕事も、みな仏道修行の不可欠の一環とされているのです。」
と明言されている通りなのであります。
さてこの「一日作ざれば一日食らわず」という禅語、世にいう「働かざる者食うべからず」という言葉とは同じだろうかと修行僧達に質問してみました。
同じように思えるという答えもありましたが、少し異なる感じがするという意見が多くございました。
どう違うのかと問うと、「一日作さざれば一日食らわず」は自主的で、「働かざる者食うべからず」というのは他人に強制しているように聞こえるという意見がありました。
この違いは大事なところだと思いました。
実に「一日作さざれば一日食らわず」については、小川隆先生も先のご著書の中で、
「百丈自身が、「一日作さざれば一日食らわず!」と高らかに宣言し、抗議のために断固食事を拒否した、という話ではありません。
農具を探すうちに食事を摂ることを忘れてしまい、そこからこの言葉が生まれて、人口に膾炙するようになった、という書き方です」
と指摘されているのであります。
まして況んや、他人に対して、「働かざる者は食べるな」というのではありません。
百丈禅師は、「わたくしには徳が無い、どうして人さまばかりを働かせられよう」という謙虚なお気持ちをお持ちだったのです。
働かない者は食べるなというと、どうしても働けない事情のある方を傷つけてしまうことにもなりかねません。
自分は働いているからという傲りの心があっては、働くことのできない人を傷つけてしまいます。
もうひとつ、小川先生の『禅僧たちの生涯』にある作務にまつわる微笑ましい話を紹介します。
小川先生のご著書から引用させてもらいます。
「ある日の「普請」のおりのこと、昼食の時を知らせる太鼓の音が聞こえたところで、ひとりの僧が思わず大笑いし、そのままさっさと寺にひきあげてしまった。
百丈は賛嘆した。
「みごと! これぞ”観音入理の門”ー耳にする音声がそのまま道への入り口というやつだ!」
そこで寺へもどって、僧に問うた。
「して、さきほどは、如何なる道理を覚ってあのように大笑いしたのかの?」
すると僧、「はい、さきほどは太鼓の音が聞こえまして、ああ、これで帰ってメシにありつける、そう思ったら笑いがこみあげてきたのです」
百丈、 「……」」
という問答であります。
この話について、小川先生は、
「この話からは、住持もみなといっしょに寺の外で野良仕事に精を出していたこと、そして、そうした労働の現場がそのまま求道の現場と考えられていたことがうかがわれるでしょう。」
と書かれています。
屋外で農作業に励みながら修行していた唐の時代の禅僧たちの姿が思い浮かんでまいります。
横田南嶺