原因と結果
先日、この百丈和尚にまつわる百丈野狐の話を修行僧達に講義をしていました。
百丈和尚のお寺でいつも禅師がお説法をなさるときに、一人の老人が聴講に来ていました。
なにやら普段見慣れぬ老人のようです。
お説法が終わってみんなが帰ると老人も帰って行きます。
ところがある日のこと、お説法が終わってみんなが引き上げても、この老人だけが残って帰りません。
どうしたことかと思って百丈和尚は、老人に質問をします。
「お前さんあまり見かけないようだが、何処の誰ですか」と。
老人は答えます。
「ハイ実は、私人間ではありません」と驚くことを言いました。
「昔迦葉仏という、お釈迦様より前の仏さまの時代に、この山の住職をしていました。
そのときに一人の修行者が私に質問をしました。
修行して悟った人も、因果の法則に従いますかと。
私はそのときにその質問に答えて、修行した者は因果に落ちない、原因結果の法則を超越して従うことはないと答えました。
その答えが間違っていたために五百回も野狐に生まれ変わりました次第です。」
というのでした。
どうもこの老人、実は狐が化けたものだったようです。
原因と結果、原因があれば必ず結果が現れます。
また結果のあるところには、必ずその原因がございます。
この因果の法則は誰も免れないはずですが、修行して悟りを開けば、因果の法則に落ちないのか、
因果を超越することが出来るのかという問いかけに対して、この老人は
因果に落ちない、原因結果の法則に縛られない、因果を超越出来ると答えました。
ところがこの答えが間違っていたために、五百回も狐に生まれ変わったというのです。
何とも奇妙な話です。
こんな話から誤った禅の教えを野狐禅と呼ぶようになったようです。
そこでこの老人、百丈和尚に対して「どうか一つの言葉を賜って、私を狐の身からのがれさせてください」とお願いをして、前に自分が受けたのと同じ質問をします。
「修行して悟りを開いた人も因果の法則に従わなければなりませんか」と。
百丈和尚は「因果の法則は決してくらますことは出来ない」と答えました。
この言葉を聞いて、老人は「おかげで私の迷いがはれました。ありがとうございました。」とお礼を表します。
そうして狐の身を脱することができたという話であります。
原因があれば、必ず結果が現われます。
善因善果、悪因悪果と申します。
良い原因には良い結果があり、悪い原因には、悪い結果が訪れるというのでります。
では、この言葉をそのまま信じられるだろうかと修行僧たちに聞いてみました。
そのようにあって欲しいと願うけれども、必ずしもそうではないのが現実だというのが多くの答えでありました。
その通りであります。
もっとも、道元禅師は、
「大凡(おおよそ)因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞る、毫釐もたがわざるなり、若し因果忘じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。」
と仰せになっています。
因果の道理ははっきりとして私の意を差し挟む余地はないということです。
悪をなした者は苦しみの世界に落ちることになるし、善行を積んだ者は善き世界に昇ることは全く間違いのないことだというのです。
ほんのわずかも違うことはないのです。
もしこの因果の法則が無意味であるならば、仏さまがこの世に出てきた意味も、祖師が仏法を伝えた意味もなくなってしまうというのであります。
しかし、実際の世の中では、司馬遷が『史記』の中で、「天道是か非か」と嘆いたように、孔子のお弟子の顔回は優れた弟子でありながら、貧困のうちに苦労しながらわずか三十歳くらいで亡くなりますし、逆に盗人の大親分であった盗跖という人は、大泥棒でありながら世に横行し天寿を全うしたのでした。
かのお釈迦さまでさえ、ご生前に九十日にも亘って、馬に与える餌である麦を食べて過ごされたことがありました。
これはお釈迦さまをお招きした国のバラモンの王が、お釈迦様に供養すると言いながら、そのことを忘れてしまっていたのでした。
お釈迦さまとお弟子達五百名は、馬の麦を食べていたのでした。
ひどい話だと思いますが、お釈迦さまは、これにも原因があると仰いました。
それは、はるか昔の過去世で、毘婆葉(びばしょう)如来は国王たちからの食事の供養を受けたあと、病気で来られなかった弥勒という名の比丘の食事をもらって帰ったことがありました。
その帰りの途中、おいしそうな食事を運んでいるのを見た、とある婆羅門がやきもちをやいたのでした。
「道を求める沙門がこのような旨いものを食べるものではない、馬の麦を食べるにふさわしいのだ」とそしりました。
さらに、その弟子の五百人の童子にも同じことを言わせました。
その弥勒という病気の比丘は今の弥勒菩薩です。
その悪口を言った婆羅門は今のお釈迦様であり、弟子の五百の童子は今の仏弟子の五百の阿羅漢だというのです。
このようなことが原因となって、その婆羅門とその教え子の五百の童子は後に、長い間に地獄に落ちるなどのもろもろの苦しい果報を受けました。
そして、今は仏になっても、その残りの報いとして、お釈迦さまは五百の比丘弟子達ともに馬の麦を九十日も食べるという結果になったという話です。
善悪の原因の結果がいつ現れるのか、それはわからないのであります。
善悪の原因が、今自分の世代で生きている間に結果として現れるものもあります。
そして、生まれ変わって次の生で現れるものもあります。
それから次の次の生か、いつ現れるかわからないものもあると説かれています。
それでもどこかで必ず現れるものが因果です。
因果がどのように現れるのか、因果の入り組みは私たちの人知を超えたものです。
過去の原因を変えることは、私達には出来ません。
お釈迦さまほどのお方でも過去に人をそしった報いを受けるというのです。
今私たちは、人を傷つけるようなことを言わないように、将来に向けて善き種をまいておくように心しなれけばなりません。
横田南嶺