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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.13
今日の言葉

楽しくなる

PHP8月号が送られてきました。

今月号の特集は、「ちょっとしたことで一日は楽しくなる」というものです。

毎月それぞれの特集があって、学ばせてもらっています。

そのなかに、脳内科医の加藤俊徳先生が、「楽しくなる脳をそだてよう 脳が活性化すれば、毎日が楽しくなります。八つの「脳番地」を刺激する習慣を始めてみませんか?」という題で書かれていました。

加藤先生によれば、

「脳の中では、同じ働きをする複数の神経細胞が集合して基地を作っています。

ほくはこの基地を「脳番地」と名付けました。

なかでも脳の若返りに欠かせないのが、「思考系脳番地」「感情系脳番地」「伝達系脳番地」「運動系脳番地」「理解系脳番地」「聴覚系脳番地」「視覚系脳番地」「記憶系脳番地」という八つの脳番地だというのです。

そして人が楽しさを感じているのは、この脳の八つの番地のどこかが刺激され、活性化した状態だというのです。

「たとえば、美しい草花を見て視覚系脳番地を鍛え、鳥のさえずりを聞いて聴覚系脳番地を鍛え、それから図鑑でそれらを調べて理解系脳番地を鍛える・・・。
脳は脳番地ごとに一生成長し続けますから、楽しくなる脳を育てるためにできることはたくさんあります。」

と書かれています。

私もこの頃は毎日楽しんで暮らすように心がけています。

楽しければ自然と笑顔になれるものであります。

この「楽しくなる」ということを私に教えてくださったのは、曹洞宗の藤田一照さんでありました。

一照さんの『愉しい修行がもたらすもの』という小冊子(鴻盟社刊)には、ベトナム人禅僧のティック・ナット・ハン師との出会いが書かれています。

ティック・ナット・ハン師が来日された時の事、一照さんは通訳のメンバーに選ばれ、各地を訪れ講演会などを行う師に随行されたのでした。

そこで一照さんは、

「その後の私の修行観に大きな方向付けを与えてくれました」という体験をなさったのでした。

ティック・ナット・ハン師のことを一照さんは、ベトナム語で「先生」という意味で「タイ」と呼ばれています。

小冊子から引用させてもらいます。

「ある日の早朝、タイがお弟子さんと一緒にプライベートに散歩をされているところにたまたま出くわしました。

タイは私を招き寄せて、一緒に並んで歩くように誘ってくれました。

そして “Issho, smile!Practice should be enjoyable.〟とおっしゃいました。

当時の私は、自分では気づいていませんでしたが、タイの目からすると、「真剣に修行している者は、ヘラヘラしてはいけないし、第一、そんな甘っちょろい表情をしている余裕なんかないはずだ!」とでも言わんばかりのいかにも硬い表情をしていたようです。

そんな私を見てタイは「一照さん、笑顔だよ! 修行は楽しいものでなくてはなりませんよ」と言ってくださったのです。

それに続けてタイはこう言いました。

「ブッダもそうだったんですから。

気難しくしかめっ面をしている人の周りには、人は集まりません。

ブッダが愉快で幸せそうに歩いているから、その周りに人が集まったんですよ。

ブッダの生き方を見習おうとしている私たちもそうでなければならないし、そういうあり方ができるような修行をしているんですよ」と微笑みながら諭してくださいました。

これは今日に至るまでずっと僕の耳朶に残っているタイからの教えになりました。」

というのであります。

そこから一照さんは、「坐禅は安楽の法門である」という道元禅師の言葉について述べておられます。

「何かを手に入れようと追求している限り、必ず身心に緊張が生まれます。

ですから、安楽という状態が実現できるのは、今起きていることにそのまま任せておけるときだけです。」

と説かれているのです。

一照さんご自身も

「自分の坐禅をあの手この手で安楽の坐禅にしようとしたり、意志力を駆使して姿勢をよくしたり、呼吸を深くしようとしたり、心を無念無想に近づけようとしたり、「最大限ちからをもいれ、こころをも盛んに費やして」いたのです。

ですから、私の坐禅は(正確には習禅だったわけですが)、言うことを聞かせようとする私のエゴとそれに逆らおうとする私の身心の自然との間の熾烈な戦いの場になっていました。

姿勢や息や心の側からの反発や抵抗に打ち勝つために、私はさらに命令の声を荒げていったのです。

「そうじゃないだろう! なんで素直に俺の言うことを聞かないんだ!」そういう身心の自然からの抵抗に英雄的に打ち勝つべく頑張るのが修行だと思い込んでいました。

しかし、これではとても安楽の坐禅と呼べるものではなく、まさに釈尊が放棄した苦行そのものでした。

坐禅にはその人の生き方が反映しますから、当時の私の人生は「楽しい」ことがないわけではありませんでしたが、「愉しい」ものとは言えませんでした。」

という経験をなさっていたのです。

そこで「「楽しい」というのは、欲しいものが手に入った時の「たのしい」気分ですが、「愉しい」というのはそういう理由や条件とは無関係に、どのようであっても自分が自分として存在していることが「たのしい」ということです。」とたのしいということについて説明してくれています。

ティック・ナット・ハン師との出会いなどを通して一照さんは、

「タイとの出会いが唯一の契機になったわけではありませんが、四十歳に入った頃から私の修行生活は少しずつ「愉しさ」を帯びるようになっていきました。

坐禅にも安楽の法門が開ける瞬間が増えてきました。

それは、今起きていることが何であれ、それを目標との関連において、起きていいことだとか起きてはいけないことだとか判定するのではなく、それをその時その時の出来事としてそのまま受容できるようになったからです。」

ということなのであります。

いまはいつ一照さんにお目にかかっても、心のそこから毎日を愉しんでいる様子がうかがえます。

サンガ新社の企画で一照さんと対談した折にもそんな問題について話ました。

私は、亡くなった先代の足立大進老師から「楽しいことをするんなら、お金を払わないかん」とよく言われていました。

遊園地にいって楽しむには入園料がいるというのです。

それに対して「我々は辛いことを辛抱しているから、お布施をいただけるのだ」ということでした。

そこで「楽しんでいたらいかん。辛いことに耐えよ」とあえて辛く厳しく修行するということでした。

そんなことを一照さんに申し上げたことがありました。

なかなか難しい問題でありますが、私はこの頃は専ら愉しんで修行しているのであります。

 
横田南嶺

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