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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.11
今日の言葉

人生の隠し味

知らないところで、自分のことが掲載されていたりすることがあります。

先日所用で、東慶寺を訪れると、和尚から「老師が載っていますよ」といって、一冊の冊子を頂戴しました。

その冊子というのは、『郷學』というもので、安岡正篤先生の「実践的人間学」に学ぶ同人誌なのであります。

安岡正篤先生というと、政財界の著名人などが師と仰いだ方であります。

昨年円覚寺の夏期講座にお越しいただいた安岡定子先生は、その御孫さんにあたります。

多くの政治家や財界人の精神的指導者と称せられるのが安岡先生であります。

その高名な先生の人間学を学ぶ同人誌に、紀州の鍛冶屋に生まれた私如きが、その誌面を汚すとは恐れ多いと思いました。

村上信夫先生が、私のことを書いて載せてくださっていたのです。

今年の四月から東京湯島の麟祥院で開かれるようになった村上先生の「次世代継承塾」のことについて書かれていました。

なにせ私はその「次世代継承塾」の第一回のゲストに招かれたのでした。

『郷學』に書かれている記事のタイトルは「ことばの引き出し」でサブタイトルに「記憶は執着を生む」と書かれています。

「記憶は執着を生む」というのはどういうことかというと、村上先生は次のように書かれています。

「鎌倉でお気に入りの場所を聞いた。

すると、「行くところ行くところが好きな場所」との答え。

「とりわけ、ここが好きだというと、好きでない、嫌いなところができてしまう」というのだ。

「会った人をみな好きになる性格だから恋愛が出来ない。それで、とうとう独り身で来たのかな」と笑いを誘う。

愛読書も好きな音楽も特定出来ないのだそうだ。

なにかにこだわることは執着に繋がる。

そこはさすが禅僧だと感じ入る。

「記憶は執着を生む。記憶は、時として妨げになる。記憶がなければ、その時を新鮮に生きられる。瞬間を生きることが出来る。その時その場を楽しむことが出来る」こう言われてみると、記憶が薄れることも、あながち悪いことではないと思えてくる。「記憶していなければならない」とこだわりを捨てると爽快だ。」

と書いてくれています。

そして、紙面の終わりには、

「横田南嶺さんの引き出しは、それこそ充実している。

禅語だけでなく、自分の腑に落ちたことばを、毎日オンライン配信している。
ことばのお福分けをしている。

使うことで、ことばは生き生きしてくる。」

と書いてくださっていて、恐縮しました。

安岡先生の同人誌に掲載してもらえて、村上先生に感謝します。

それから、日本講演新聞の社説にも私の名前が載っていました。

日本講演新聞は、六月十三日号に大きく取り上げてもらったのでした。

今回は、七月四日号の社説に水谷もりひとさんが書いてくれているのです。

この社説には考えさせられるところがあります。

題は「「否定」は案外人生の隠し味になる」というのです。

書き出しが、

「ここ3年ほどで除菌、殺菌の習慣がすっかり定着してしまった感がある。」という一文です。

たしかに新型コロナウイルス感染症の蔓延によって、除菌、殺菌が一層強調されました。

どこにいってもまず手の消毒、家に帰ったらうがい、手洗いの励行であります。

私など、今までは雑菌と共同して暮らすという考えで、手などろくに洗わずに過ごしていましたが、さすがに今回のコロナ禍で手を洗うようになったものです。

社説にも、

「一日何回手の消毒をしているのだろうか。」と書かれています。

まさにその通りであります。

水谷さんは、

「人間の生活空間をすべて無菌状態にして大丈夫なのか。除菌の習慣化で人間は病原菌に対する免疫力を低下させ、虚弱になってしまうのではないか。」と危惧されています。

そして、この「無菌状態」について、

「生まれてこのかた親から否定されることもなく、失敗も挫折もなく、周囲に悪友もいない状態とでも言えようか。

そんな環境で育った人のことを「免疫がない」と、医学用語を使って言ったりもする。」

と書かれています。

そんな文脈で、「「無菌」との対極にあるように思える」として、私が登場するのであります。

「臨済宗円覚寺(えんがくじ)派管長の横田南嶺さんは、執行草舟(しぎょう・そうしゅう)さんとの対談本『風の彼方へ』(PHP)の中で、禅の「否定の哲学」について語っているが、これが何とも「無菌」と対極にあるように思える。

 「禅の修行は徹底して自分を否定するところから始まります。人間は無であり、空であるという教えです」と言い、「世間で役に立つことを否定するのが坐禅です。坐ることは活動の否定です。役に立たないことを修行として精進するところに最終的価値を見出しています」と言う。」

と書いてくださっています。

そして、

「「自己否定の連続によって、私も少しは人の役に立てる人間になったのではないかと、この頃は感じています」と横田管長は言うのである。」

と書かれています。

確かに今振り返っても否定、否定の連続でありました。

先代の管長さまには、三十年お仕えしましたが、毎回お目にかかると、否定また否定で、肯定されたことは一度もありませんでした。

いつうかがっても不愉快なお顔をなさって、お叱りか小言か皮肉を頂戴するだけでした。

そして執行先生の言葉も紹介してくれています。

「横田さんの言葉を受けて、対談相手の執行さんは言う。

「世の中、毒がないと良くなりません。免疫はばい菌が入らなかったら強くならない。精神的な毒は不合理なこと。これが人間を成長させるのです」」

というのであります。

無菌状態よりも、いろんな菌にもまれて、時には毒を食らって、人は強くなってゆく一面もあります。

しかしながら、やはり隠し味程度がいいのであって、ご飯にかけるふりかけみたいに浴びせられるとたまりません。

 
横田南嶺

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