学び学び、謙虚に学ぶ
そんな雑誌を読んでいて、住職として自慢できることはというアンケート調査の結果が掲載されていました。
「草むしりをよくしていること」などという答えは、禅宗の和尚さんらしいものです。
毎月法話会をしている、坐禅会をしている、質素な生活をしているなどなどいろんな回答が書かれていました。
さてこんな記事を微笑ましく思いながらも、少し違和感も覚えました。
この違和感は何かなと考えると、「自慢」という言葉にひかかるものがあったのです。
「慢」ということは、仏教ではよくない心のはたらきであります。
いかなることであれ、他人より優れていると考えてしまうことによって高ぶることを言います。
何も自慢できるものはありませんという謙虚な姿勢もよろしいのではないかと思ったのでした。
少なくとも慢心が少しは減るというものであります。
しかし、自慢するものがないということを、心のなかで自慢するようになると、これがまた慢心につながってしまいますので、慢心というのは恐ろしいものであります。
では慢心を起こさないようにするにはどうしたらよいのでしょうか?
こんな和歌を思い起こしました。
思うなよ われかしこしと 夢にだも 学ぶにつれて へりくだりゆけ
というものです。
これは高校生の頃に、合掌園の水野秀法先生に教わった和歌であります。
水野先生という方は、今までめぐりあった宗教家の中でも印象に残っています。
浄土真宗の方でありました。
謙虚で自己反省を絶えず行っている方だという印象でありました。
浄土真宗などお念仏の方は、どこまでも謙虚であります。
水野秀法先生も謙虚なお念仏者でありました。
そこで一週間内観の修行をさせてもらったことがあるのです。
そして、その時に教わった和歌を心に刻んできました。
そこで謙虚になるには、やはり常に学ぶことであります。
先日も椎名由紀先生にお越しいただいて、皆と共に呼吸法を学びました。
ここのところ毎月ご指導いただいています。
いつもまずは姿勢からです。
この姿勢が難しいのであります。
まっすぐに坐っている、まっすぐに立っているように思っていても、どこかに偏りがあり、力みがあって、まっすぐではないのであります。
仙骨の位置、そして肋骨の傾き具合などを丁寧にご指導くださいます。
腰を入れることを意識しすぎてしまうと、仙骨が前傾してそり腰になってしまいます。
そうすると胸がはってしまい、腰に負担がかかります。
この姿勢は一見するときれいに見えるのですが、実はよくありません。
深い呼吸もできないのです。
私なども随分気をつけているつもりでしたが、なんども肋骨の傾きを矯正してもらいました。
岡田虎二郎先生が、みぞおちを落とすと説かれたところであります。
岡田式静坐法について詳しく書かれている『静坐三年』という本をみても、
「むかしから老人などはよく「鳩尾が引込んで居る人は丈夫である」と云ふが、岡田式では、坐時に於ても、又不断に於ても、此の「鳩尾を落す」と云ふことを強く主張する。
而かも鳩尾を落とすには、肩を聳やかしたり、胸を張り出してたりしては、到底出来ることではない。
是れ老子の所謂「胸を虚にし腹を実にする」に外ならない。」
と書かれています。
また「さらば此の鳩尾を落とす姿勢が、何故そんなに肝要であるかと云ふに、斯くして胸、肩、頭等、鳩尾以上身体のすべての部分の力を抜き去らんが為である」
というのであります。
『岡田式静坐法』という本には、
「鳩尾を落とすとは鳩尾のところの力を脱くの謂なり。そこを軽くするの謂なり。鳩尾の力を抜かずんば、全身の力下腹部に集まらず、即ち重心安定するを得ざるなり。」
「胸を落として修養する人は平和円満の人となり、胸を張る人はやせ我慢の人となる」と書かれているほどなのです。
実際に岡田先生は、門人の指導でも胸に手を当てて引き下げて、「毫釐の差は天地の懸隔ですわい」と仰っていたそうなのです。
ほんのわずかの差が、天地の違いになるというのです。
そんなことを十分学んでいるつもりでも、やはりまだ力みが残っているのであります。
それと同じように、心にもどこかに慢心が潜んでいるのであります。
姿勢を矯正すると共に、心も正さなければなりません。
椎名先生はそっと手を添えて直してくださいますので、有り難いことです。
ほんのわずかの違いなのですが、直してもらった後は、呼吸が今までよりもずっと深くなるのであります。
いつも佐々木奘堂さんに、「腰が立っていない」と厳しくご指導いただくことも、これはこれで実に有り難いことですが、椎名先生のようにそっと手を添えて直していただくのも有り難いものです。
森信三先生も腰骨を立てる立腰教育では、子どもの腰骨にそっと手を当てて指導されていたことを思い起こしました。
かくして学び学び続けることが、愚かなる者がせめて慢心を起こさぬ一番の道かと思っています。
横田南嶺