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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.07
今日の言葉

現代における坐禅の意義はどこにあるのか

先日サンガ新社という出版社の企画で、藤田一照さんと対談させてもらいました。

対談といっても一照さんとは、よくお目にかかっていますので、改めて対談という雰囲気でもなく、和やかに始まりました。

ただ出版社の企画で対談、ライブ配信となると、お互いに法衣を着ての対談となりました。

いつも一照さんとは作務衣で体操したりしていますの、法衣で会うのは久しぶりなのでした。

法衣をお召しになるとやはり曹洞宗の禅僧でいらっしゃいます。

そう思って話を始めると、一照さんは、昨日まで海でイルカと泳いでいたという話に驚きました。

やはり中身は自由人の一照さんでした。

今回の対談は、サンガ新社となって「サンガジャパンプラス」が新創刊されて、その記念の対談なのでした。

新創刊号を手にして表紙をみていると、いろんな著名な先生方の名前がきら星のように連なっています。

前野隆司先生、熊野宏昭先生、宮崎哲弥先生、松岡正剛先生、末木文美士先生、鎌田東二先生、橋爪大三郎先生、田口ランディ先生などなど錚々たる執筆陣です。

さすがにこんな著名な先生がたばかりなので、私の名前などは載らないのだと思っていると、なんと一番上に、アルボムッレ・スマナサーラ長老の次に私の名前が大きく出ているではありませんか。

その次が藤田一照さんなのです。

一照さんと私の対談も載っているのです。

ところが、その新創刊記念と言いながら、その雑誌をいただいたのは、まさに対談の直前で、あらかじめ目を通しておくこともできなかったのでした。

それから、おおらかな出版社で、その対談の内容にしてもその前日に資料が届いた次第で、あまり準備もできずに臨んだのでした。

それでもどうにか対談になるものです。

もっとも一照さんとの対談ですので、お話好きな一照さんですから、こちらは相づちをうっていればうまくゆくと思っていまして、気楽に始めたのでした。

この対談の前に、企画の告知の為にコメントを欲しいと頼まれて、私は次のような文章を送っていました。

実にひどい文章です。

「私は十歳の時に坐禅にめぐりあい、それ以来ただ好きで坐禅をしてきました。残念ながら、「現代における坐禅の意義」というようなことについては考えたことがないのであります。好きで坐禅して、それで死んでいったら本望なのです。今もそうであり、そしてこれからもこの坐禅の探求に生涯をささげるのみなのであります。そんな私のような者が、何かのお役にたつかどうか心もとないのですが、どうぞよろしくお願いいたします。」

というのであります。

これは実に率直な思いなのです。

現代の役に立とうなど全く思わずに、一人この世の片隅で坐禅してきただけなのです。

人に坐禅をすすめようという気もないのです。

対談のあとに、若い人に坐禅をすすめる言葉をいただきたいと言われて、一照さんは坐禅の素晴らしさを語ってくれましたが、私はというと、若いうちは楽しいことをやった方がいいですよ、何も無理に坐禅しなくても、おいしいもの食べたり、好きな人と出会ったりして、楽しんでください、そしてもしもそれだけで満足いかなかったら坐禅に来てくださいと申し上げたのでした。

私のそのようなやる気のない文章に対して、一照さんは達磨大師の面壁、道元禅師の只管打坐につらなる幽邃の坐禅の世界をきわめてゆきたいという文章を書いてくださったのでした。

出版社の方は、この一照さんの使われた「幽邃の坐禅」ということから話を始めて欲しいと言われました。

打ち合わせたのはそれくらいのことだけでした。

「幽邃の坐禅」というと、これは沢木興道老師の仰った言葉です。

沢木老師が「坐禅は幽邃である」と言われたのは私も存じ上げていました。

「幽邃」という言葉は漢和辞典で調べてみると、「奥深くて静かなこと」という意味であります。

まず私はこの「幽邃」という言葉を取り上げて、「幽邃と言われると、どこかこの俗世を離れた、もやのかかった山中で、茶室のような風流な建物で一人静かに坐禅にふける、風雅で高尚な感じがしますが、一照さんが取り上げる「幽邃な坐禅」というのは、そういう風流風雅な意味ではありませんね」と申し上げました。

もちろんそういう俗世を離れた高尚なものという意味ではないというところから一照さんは話をしてくださいました。

奥深さというのは、ここを離れてどこかにあるのではなく、ここに坐っているところに奥深さがあると説明してくれました。

そんなところからお互いに話は自由自在に展開して、気がついたら終わりまであと十分しかありません。

肝心の「現代における坐禅の意義」について語ることを全く忘れていたことにお互い気がつきました。

これはいけないと思って、軌道修正して現代における坐禅の意義について話をしました。

この対談の企画が出来た頃には、告知文にも書いたように現代における坐禅の意義など考えたことも無かったのですが、先日ソフトバンク社長の宮川潤一さんと対談して、現代における坐禅に意義について考えることがあったと話をしました。

どういうことかと聞かれて、メタバースの話をしました。

宮川さんの仰るには、これからはメタバースが益々進んでゆくということでした。

すると、そのようなバーチャルの世界で却って悩みが深くなり、迷ってしまう人が出てくるというのです。

私は宮川さんにメタバースでご飯を食べてお腹がふくれますか、大小便できますかと聞きました。

できないのです。

『臨済録』に

「諸君、仏法には、造作の加えようはない。

ただ平常のままでありさえすればよいのだ。

糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけだ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。」

と説かれています。

大小便をする、服を着る、ご飯を食べる、疲れたら眠る、これは、決してメタバースで行うわけにはゆかないのです。

自分で大小便を出さなければ意味がありません。

服を着るのは、この自分自身の身体です。ご飯も代わって食べてもらうことはできません。

眠るのはこの自分自身が眠らないと生きてゆけないのです。

坐禅は実にこのメタバースの発達などによって迷い苦しむ人が出たときにこの現実の身体にたち帰って、大地に坐ることから始めることなのです。

生きているのは、この身体です。

大地に坐っている身体です。

大地にしっかり土台を築いて坐る、坐禅の意義はこれからの社会に大いにあると話をして終わったのでした。

 
横田南嶺

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