臨済宗と曹洞宗の違い
何の話をしようかと思いながら、何か聞きたいことはありませんかとこちらから聞いてみました。
すると、曹洞宗の坐禅と臨済宗の坐禅の違いについて聞きたいということでしたので、短い話をしたのでした。
よく一般には、壁に向かって坐るのが曹洞宗、対面して坐るのが臨済宗だと言われています。
たしかに今はそのようになっていますが、これが曹洞宗の坐禅と臨済宗の坐禅の本質的な違いではありません。
近年の研究では、臨済宗でももともとは壁に向かって坐っていたのでしたが、江戸期になって今のような形になったようなのです。
それには、江戸期に日本に伝わった黄檗の教えが大きな影響を与えているというのです。
もともと同じように面壁していたようですし、これは本質の違いではありません。
やはり臨済宗の坐禅は公案を工夫するところにあると思います。
公案というのは禅の問題なのですが、この公案で何を明らかにしようとしているのかというと、それは己の心がそのまま仏であるということなのです。
臨済の教えは、馬祖道一禅師の教えを受け継いでいます。
馬祖禅師の教えは、心がそのまま仏であるということです。
自らの心が仏であると自覚することに重きを置いています。
そこでそのことを、譬えを用いて、パンダの話をしました。
パンダの話は、動画でも話をしていますが、私の著書『禅と出会う』から引用しましょう。
「大勢の人が上野動物園のパンダを見ようと、押すな押すなの行列を作って並んでいる。
その行列の中にパンダがいたのですね。
行列の中にパンダがいたら、周りの人は言いますよ。
「あなた、パンダですよ。あなたはパンダなんだから、パンダを見るために並ぶ必要はないですよ」。
ところがそのパンダは、自分がパンダであることが分からない。分かっていない。
みんながパンダを見るために行列を作っていれば、自分も見たいと思う。
でも、「おまえは見なくていい」と行列から押し出されるものですから、愕然としてしまうのですね。
いろんな人が「おまえはパンダだよ、鏡を見てみろ!」というけれども、鏡というものが分からない、認識できない。
本を見せられて、可愛いものだな、と思う。
でも自分はパンダではないと思っている。
とうとうパンダになろうと、一生懸命修行を始める。
目の周りを黒くすればパンダになるかな、と思ったり、笹をかじればパンダになれるかな、と思ったり、パンダの生態を研究したり。一生懸命パンダの真似をする。
でも、いくらパンダの真似をしたとしても、パンダであるという自覚がなければ、これは迷いなのです。
なんとかパンダになりたい、どうにかしてパンダを見たいと思う。
そのうちに、あるとき水溜りに足を滑らせて転んだ。
水溜まりから顔をあげて、ふっと泥水を振り払う。
その時、その動作とまったく同じ動作をしているパンダが、水溜まりにありありと映っている。
それを見た瞬間に、「ああ、これは自分であった! 自分はパンダであった!」と、気づくのです。
すると、パンダは、もうパンダを見に行く、求める必要はなくなって、自分がパンダであると安らぐことができて、その後はごく普通に日々の生活を送りながら、パンダであるのです。
臨済禅師も説いています。求める心が歇んで、自分が仏であると気づいたならば、あとは縁にしたがって、ご飯を食べたり、お茶を飲んだりしていればいいのだ、と。
臨済禅師の語録を読むと、戒律を守ったり、長いこと坐禅をしたり、勤行を務めたり、そんなことをしても無駄事だ、よけいな業を作るだけだ、というのです。
すると、修行などしなくていいのか、ということになって、これを説明するのはなかなか難しいのですが、パンダの話を活用すると大変分かりやすい。
つまり、パンダは、パンダの真似をいくらしても、これは真似なのです。
どうしても窮屈なのです。
「自分はパンダだった!」と気づいたならば、なんの真似もしなくていい。
それで、求める心が歇んで、安らぎを得る、落ち着くのです。
落ち着くと、そのパンダは周りの人を癒すことができるわけです。」
という話なのであります。
いろんな禅問答がありますものの、この自分はパンダだということ、私の心が仏だと気がつくことの一点が大事なのです。
心が仏だと気がついたら、もう仏のマネをせずとも、何をしていてもその動作が仏の動作であり、その言葉が仏の言葉となるのであります。
駒澤大学の小川隆先生が、曹洞宗と臨済宗の違いを、「会社と商店街」の喩えをなさっています。
なるほど言い得て妙なのです。
たしかに曹洞宗というのは大会社です。
道元禅師の教えを忠実に守っている、実によく統率の取れた組織です。
それに対して臨済宗はというと、商店街のようにそれぞれいろんな個性的な商店が並んでいるのです。
あまりにも個性的で統率されたところはありません。
それでいて全体が商店街になっているのです。
今の臨済宗は、十四もの本山があり、派に分かれています。
それぞれの管長さまや老師さまがいらっしゃって、それぞれが独自に教えを説いています。
あまり統一見解のようなものはありません。
それは、臨済の場合各自の心が仏であると自覚することに重きを置いていますので、その自覚があればいかような活動をしようが、いかような言動をしようが皆仏の営みとなるということなのです。
それで曹洞宗さまに比べるとあまり形式を重んじるところが少ないのですと、答えたのでした。
もっともあまりに自由すぎても問題となりますので形式も大事ですし、かといって形式にとらわれて本質を失ってもいけませんし、難しいところです。
横田南嶺