坐ることの難しさ
しかし、この「只」ということほど難しいものもありません。
このところ、いろんな講座が続いて連日勉強させてもらっています。
藤田一照さんには、二回目の坐禅の講義と実習を行ってもらいました。
いつもながら懇切丁寧に、「只管打坐」を講義してくださいます。
「調えられし自己こそ真の拠り所である」というブッダの言葉を引用し、更に「身心を調えてもって仏道に入るべきなり」という道元禅師の『学道用心集』の言葉を示してくださいました。
それから姿勢について単に形だけの問題ではなく、生きる態度して、ブッダになるために行うのではなく、ブッダとして生きるのだということを仰っていました。
首と頭のつながりのワークを教えてくださいました。
首の位置というのは難しいものです。
私たちは、現代の生活をしていると、無意識のうちに首が前に傾いてしまっています。
この首の位置を直すのに、ゆっくりと無理なく気持ちよく調える方法を教えてもらいました。
それから、四つ這いになって背骨のワークも行いました。
これはヨガで行う猫のポーズと同じなのですが、骨盤を前傾させたり、後傾させたりすることによって、背骨を首まで連動して動くことを体感するのであります。
坐骨と膝を通して大地に連なっている感覚、からだと大地の編み合わさりの感覚をもっていくのであります。
そうすると、一照さんは「からだが大地に入り大地がからだに入っている」というようになると仰っていました。
合気道の植芝盛平先生が、自分は宇宙とひとつになっているから投げられないという言葉を引用されたのも印象に残りました。
大森曹玄老師の『驢鞍橋講話』にも
「合気道の植芝盛平さんが、弟子たちに向かって「お前たちはおれを倒すことはできない。なぜならおれは宇宙と一体になっているからだ」と言われたという」
と書かれています。
たしかに宇宙とひとつになっていると倒すことはできないでしょう。
そうして抵抗や対立が脱落して、エネルギーの調和が生まれるということです。
そこで一照さんは「全体的なエネルギーからからだが切り離されている感覚が消える」というのを「安心の原初感覚」だと示してくださいました。
自分がこの宇宙全体の調和から独立しているように思うのが迷いであり、苦しみを生み出すのです。
こういう調和のとれた状態を本来性というのでありましょう。
本来性と現実性の問題は取り組むべきところであります。
道元禅師も、本来本法性、天然自性身なのに、なぜ発心して菩提を求めるのかという疑いを持たれて修行されたのでした。
そこを一照さんは、本来具えている「仏性の表現」「仏性の証明」として修行するのだと仰っていました。
そこで本来性を取り戻すために、眼球や頷、肩甲骨の緊張をとるワークを教えてもらいました。
本来性に目を向けてそのまま仏である、ありのままでいいというのか、現実性に目を向けて、しっかり修行に励めというのか、それぞれ両方の立場があるものです。
その翌日には佐々木奘堂さんの坐禅講義でありました。
奘堂さんの坐禅講義は更に一層難しいものであります。
まだ今年入った修行僧にとっては理解するのは困難なのであります。
何回も聞いていてもわかりにくいという者が多いのであります。
言わんとするところは、道元禅師のお師匠さんである天童如浄禅師の「昼夜 脊梁を竪起せよ。勇猛にして、切に放倒すること莫れ」ということなのであります。
白隠禅師が『臘八示衆』に示された「脊梁骨を竪起し、気を丹田に充たし、正身端座せよ」ということに尽きるのであります。
私たちの身中には八百万の神々が鎮座してくださっているのです。
その神々をお祀りするには、脊梁骨を竪起し気を丹田に充たし、正身端座することだというのが白隠禅師のお示しなのであります。
しかしながら、実際に私たちの坐禅は腰が抜けているというのであります。
ではどうしたらいいのかというと、あれこれ考えてはいけないということです。
腰を立てようとしたら駄目だというのですから、難しい。
達人の技なのかと思いますが、奘堂さんは決してそんな達人のなせる技などではなくて、誰でも出来るのだと示してくださりますものの、実際には誰も腰が立っていないというのですから、やはり難しいものです。
私も控え室で座り方が悪いと指摘してもらってご指導いただきましたが、何回も話を伺い、実習を受けてみても、駄目だというのでありますから、やはり簡単ではありません。
今回もパルテノン神殿にお祀りされていたディオニソス像を、3D映像を用いて親切に示してくださいましたが、もはや私などは遠くはるかに仰ぎ見るばかりなのであります。
あまりに高い理想を掲げられると、気落ちしてしまうのも人間であります。
高い理想を掲げて目指すことと共に、藤田一照さんが教えてくださるように、地道に毎日一歩一歩の稽古をするような修行も大事だと感じたのであります。
いずれにしても、私は大いなる仏心の中に抱かれての営みだと思って安心して行っているのであります。
横田南嶺