常楽我浄の大転換
そこで一照さんは「全体的なエネルギーからからだが切り離されている感覚が消える」というのを「安心の原初感覚」だと示してくださいました。
自分がこの宇宙全体の調和から独立しているように思うのが迷いであり、苦しみを生み出すのです。
こういう調和のとれた状態を本来性というのでありましょう。
この全体的な調和からからだが切り離された感覚が自我意識というものであります。
そして自分だけが独立して存在しているかのように思いこみ、自分の思うようになると思いこみ、自分のものがあると抱え込んでしまうのです。
そのために、病や死が苦しみになるのです。
なぜなら、病や死は、そのような自分、自分のものというのがなくなっていくことだからです。
仏教はこの自我を否定する教えであります。
これを無我といいます。
無常と無我と苦しみということは、お釈迦さまが説かれた一番根本の教えであります。
自我は常一主宰であります。
いつも変わることなく、それだけで独立して成り立ち、自分の思うままにすることができるというものです。
世の中は変化する、無常だということは誰でも理解できます。
栄耀栄華を極めた平家一門も滅亡してしまうのがこの世の中です。
変化すると理解していながらも、その変化する中心には変わることのない自分があって、まわりだけが変化するように思っているのであります。
仏教の大事なところは、その中心となる自分はいない、それも同じように変化するものだと説くところであります。
この自我を否定してゆくために修行をしたのでありました。
まず仏教では四念処という修行を行っていました。
「四念処」とはどのようなものか、岩波書店の『仏教辞典』を参照してみましょう。
「四念住ともいう。四つの専念の意。
浄(じょう)・楽(らく)・常(じょう)・我(が)の<四顛倒)>を打破するための修行法で、身体の不浄性を観察し(身念処)、感覚の苦性を観察し(受念処)、心の無常性を観察し(心念処)、法の無我性を観察する(法念処)」というものです。
体は不浄であり、感受は苦であり、心は無常であり、法は無我であると観察するものです。
三十七道品(修行法)という初期の仏教の修行に加えられていたものです。
「一つには観身不浄、二つには観受是苦、三つには観心無常、四つには観法無我」の四つなのであります。
これによって、誤った四つのものの見方を離れるのであります。
あやまったものの見方のことを仏教では「顛倒」といいます。
こちらも岩波書店の『仏教辞典』を参照しますと、
「顛倒」とは、「原義は、ひっくり返ること。真理にもとった見方・在り方、すなわち誤謬をいう」のであります。
三顛倒というのがあって、それは「誤った想念(想顛倒)、誤った見解(見顛倒)、誤った心の在り方(心顛倒)であります。
それから四顛倒があります。
「四顛倒」とは、「無常・苦・無我・不浄であることを、逆に常・楽・我・浄(常楽我浄)であると誤解すること」であります。
『仏教辞典』には「諸法を如実に知見することを重んじる仏教では、この説は初期仏教から大乗仏教に至るまで強調された」のであります。
この世は無常であり、この無常の世の中に生きることは苦しみであり、われ一人で存在するものはないというように無我であり、この身は不浄であるというのが仏教で説く真理なのであります。
それなのに、いつも変わらないと思いこみ、いつもと同じ自分があると思い、人生にはそこその楽しみもあると思い、自分だけは変わらないであり続けると思い、この身は清らかだと思う、常楽我浄は実に誤ったものの見方だと説かれたのでした。
変わることがないと思っている自分は、実は実体のないものだ、このことを般若心経では空であると説いているのです。
そのように観ることができたならば、自己に対する執着はむなしく、そして誤ったものだと気づくことができます。
そこで自我の執着から解放されるのであります。
自我の執着から解放されることによってこそ、苦しみが滅するというのがブッダの教えにほかならなりません。
そうして無常であり、無我であるという真理に目覚めて苦しみを滅することを目指すのです。
常楽我浄は誤った見解だったのです。
『仏教辞典』には、「四顛倒説はしばしば四念処観と結びつけられた。
その結果、不浄・苦・無常・無我である身体・感受・心・法の四つを、順次、浄・楽・常・我と誤解することが四顛倒で、それを退治するために四念処観が位置づけられた」のであります。
「また、宝積経迦葉品では、常・楽・我・浄の四顛倒の治療法として諸行無常・一切皆苦・諸法無我・涅槃寂静の四法印を置く」というのであります。
常にあるという誤った見解を正すために、諸行無常があり、楽しみがあるという見解を正すために、一切皆苦があり、我という独立したものがあるという見解を正すために諸法無我があり、清らかだという見解を正すために、真の安らかさである涅槃寂静を説いたのでした。
そこから大乗仏教になって大転換が起こります。
『仏教辞典』には、「大乗仏教中、涅槃経や勝鬘経は、如来が常住であり、涅槃は最高の楽であることを強調し、四不顛倒(無常・苦・無我・不浄)をさらに超える存在として、常・楽・我・浄を究極のものと見なした。
これを<四波羅蜜>あるいは<四徳>と称する」ようになったのでした。
涅槃という悟りの状態を「常楽我浄」であると説いたのです。
涅槃、悟りの世界は、変わることなく、安楽であり、それ自身で成り立ち、清らかだと説いたのです。
逆にこの常・楽・我・浄である涅槃を、無常・苦・無我・不浄と誤解することがむしろ顛倒であるというようになったのでした。
誤った見解であるとされていた常楽我浄が、悟りの世界だと説かれるように大展開したのが大乗仏教なのであります。
朝比奈宗源老師が、
「仏心には生死の沙汰はない。
永遠に安らかな、永遠に清らかな、永遠に静かな光明に満たされている。
仏心には罪や汚れも届かないから、仏心はいつも清らかであり、いつも安らかである。
これが私たちの心の大本である。」
と説かれたように、仏心は常楽我浄なのだということになったのです。
この教えは人の心に深い安心を与えてくれます。
横田南嶺