こころ
心とは何かというと、説明するのは難しいことです。
手書きの文字に接することは少なくなってきましたが、印刷された文字よりも手書きの文字のほうが、何かしら心が伝わる気がするものです。
それもあまり調った字よりも、少々崩れた文字の方が、人間味を感じたりするものです。
おにぎりなどもそうです。
お店のおにぎりは、みな形も同じで、同じ圧力でできていますので均等になっていますが、手で握ったおにぎりの方が、なんとなく温かみを感じるものです。
修行道場では、時に皆でおにぎりをにぎって、屋外でいただくことがありますが、これはお店で売っているおにぎりとはまた異なるあじわいのするものです。
それぞれ大きさも異なり、出来不出来もあるのですが、そんなところに人の心を感じるものであります。
文字と心というと、白隠禅師に次ぎような逸話が残されています。
白隠禅師が二十二歳のとき、四国松山の正宗寺で修行した頃のことです。
ある家に招かれてご先祖の供養をいたしました。
その折に、大愚和尚の書を拝見したのでした。
その家では実に大切にしまわれていて、尊敬の意を持って扱われていることを白隠禅師は知りました。
ところが実際にその書を見てみると、そんなに上手な書ではなかったのでした。
「あのような下手な字が、このようにとうとばれ家宝とされているのは、文筆の未技、文字の巧拙によるのではなく、大愚和尚の人格の深さによるものであり、人徳のいたせるところである。」
と深く感銘を受けたのでした。
これは、直木公彦先生の『白隠禅師 健康法と逸話』にある文章を引用させてもらっています。
さらに同書では次のように書かれています。
「自分はいままで、一所懸命に書の技法をまなび、仏の智慧をまなんできた。しかし、字が上手になったとてなんになろう。
仏道を知ったとてなんになろう。
文章をまなび万巻の書を書き、世の中に有名になってもなんになろう。
仏のいのちに体感感応し、自分の内心に平和がみたされ、悟りを得て安心立命を得て、社会と衆生の救済のために働けるようにならなくては何になろう。
たいせつなのは、自分がいかなる人間であるかということであり、仏のいのちの体得であり、内心の満足であり、内心の静謐であり、人格であり、心であり、徳であり、行であり、働きにあるのである。
それなのに自分は今日まで、自分の心をおろそかにし、自分の外部に救いをもとめていたのである。
自分のもとめるものはほかにはなく、自分自身の心にあったのである。
自分の心と行にこそ自分のもとめるべきものがあったのだ。
仏を体感し自分の心中に徳をやしない、落着きと安心とを得、永遠の生を体得し、悦びと法愛をもって、仏そのものになり、四弘の誓願に生きなければならぬ」と書かれています。
そこで白隠禅師は「一大発心し、長い間もって歩きつづけた筆墨と書籍類とを全部焼きすててしまったのであります。」というのです。
八木重吉の詩に、
「心よ」という題の詩がございます。
こころよ
では いつておいで
しかし
また もどつておいでね
やつぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行つておいで
というのであります。
坂村真民先生は、よくこの心を詩に詠っておられます。
『坂村真民全詩集 第一巻』にある
六魚庵鎮魂歌
ころころするので
こころとは
何と悲しいことであろう
朝に善を抱き
夕に悪に墜つ
時には白い食卓を囲みながら
心は冬枯れのように
離ればなれになっていることがある
そんな時の心ほど
神を悲しませるものはないであろう
一碗の菜っ葉でも小鳥のように分け合って
にぎやかに食べる時の
神の喜びを見たことがあるか
動物でもそうであるが
食べる時ほど我々の心の
よくあらわれる時はない
仏陀の飯
基督のパン
美しい心ほど食卓を飾るものはない
たとえバラの花はなくても
心は朝の光のように
いつも明るく輝いていよう
昨日悪に墜ち
今日善に生く
ころころするので
こころとは
何とまた美しいことであろう
というのがあります。
また「こころ」という題で、心を詠った詩が三つございま す。
こころ
ゆたんぽをいれても
かいろをいれても
あたたまらないひは
わたしのこころもさむい
こころ
それ
しんみんさん
足が浮いていますよと
タンポポに
注意された
少しでも油断をすると
すぐ足が浮くのだ
恐ろしいのは
ころころする
このこころ
こころ
こころを持って生まれてきた
これほど尊いものがあろうか
そしてこのこころを悪く使う
これほど相すまぬことがあろうか
一番大事なことは
このこころに
花を咲かせること
小さい花でもいい
自分の花を咲かせて
仏さまの前にもってゆくことだ
心は、じつにころころと不安定なものであります。
千変万化動いてやまないものであります。
四念処の修行には、心の無常なることを観察するのであります。
制御しようとしても定まらぬものですが、静かに見つめていると自然と落ち着いてくるものです。
心を込めて一日一日を大事に生きたいものであります。
横田南嶺