道は前にある、まっすぐに行こう
管長に就任して十二年で『無門関』の四十八則の公案をすべて講義し終えましたので、また新たに何を取り上げようかと思って選んだものです。
達磨大師から三代目の祖師である、僧璨鑑智禅師の著わされたものであります。
山田無文老師は、「「信心」とは信ずる心、心を信ずること、信という心、まことの心、嘘いつわりのない心であります。」
と提唱しておられます。(禅文化研究所『無文全集第九巻』)
「「銘」とは、歌や言葉、文章を木や石、金などに彫り込んで、忘れないようにいつも目の前に置いておくものを言い、「座右の銘」などとよく申します。」
と説かれています。
また沢木興道老師は、『沢木興道全集 第十一巻』で、「心に疑いの晴れることが信である。つまりいえば、この坐禅というものに疑いが晴れて、まずここまできた、これだ、これよりしようがないと。それが信である」と説かれています。
実にこの『信心銘』は百四十六句、五百八十四字より成るものであります。
鑑智禅師という方は、初祖達磨大師、二祖慧可禅師の次、三代目の祖師であります。
お生まれになった年月や場所、お名前、行実などの詳しいことはわかっていません。
三祖禅師は、初めて二祖にお目にかかられたころに、重い病を患っておられました。
そこで二祖に、「私の体はご覧のように重い病にかかっております。
老師、どうぞ私の罪を浄めて下さい」と申し上げました。
過去に犯した罪によって病になると考えられていたのでした。
すると、二祖が、「それでは、その罪というものをここへ出すがよい。そうすればおまえのために浄めてやろう」と言われました。
こう言われて禅師はハタとつまってしまいました。
しばらくして、「罪を出せとおっしゃっても、そんなものはどこにもありません」と言いました。
それを聞いた二祖禅師は、「私は、もうあなたの罪をもう浄めおわった。これからは仏法僧に帰依して修行に励むように」と言いました。
その後三祖禅師は、修行が進むに従って、次第に病もよくなり、「是れ吾が宝なり」と二祖禅師がお認めになるほどに修行も完成してやがて「僧燦」という名を授けられました。
道業が進んで三祖になられると、舒州の皖公山に入られて更に修行を深められました。
北周武帝の廃仏毀釈の弾圧に遭って、太湖県の司空山に隠れて十年以上も辛苦を嘗められたようです。
北周の武帝という方は西暦五六〇年から五七八年まで即位されていた方ですので、だいたい僧璨禅師のご活躍された頃がわかります。
ちょうどその間に道信という十四歳の少年が修行に来て、この少年を指導なされて、九年目に法を嗣がせて四祖とされました。
この人が四祖道信大医禅師です。
そこで三祖は広東省の羅浮山に行って住まわれ、三年後に皖公山にお帰りになってまもなく遷化なさったのであります。
その最後は「立亡」と言い、大きな樹の下で説法を終えられると同時に、立ったまま亡くなられたと伝えられています。
鈴木大拙先生は、『禅の思想』のなかでも簡潔にこの『信心銘』を講義しておられます。
「至道無難、唯だ棟択 〈選択〉を嫌う。
但だ憎愛莫くんば、洞然〈からり〉として明白なり。」
というところについて、
「シナでは、最高の真理または無上絶対の実在を大道または至道と云った。
僧璨に従えばこの至道は何も六箇敷いものでない、
唯嫌うところとは、彼此と云って択びとりをすることである。
即ち分別計較心をはたらかすことである。
このはたらきから憎愛の念が出て、心そのものが暈ってくる。
心が有心の心になると、もともと洞然として何等のさわりものもなく明白をきわめたものが、見えなくなる。
分別を去れ、憎愛を抱くな、すると本来の明白性が自ら現われる。」
と解説されています。
究極の道というのは何も難しいものではない、只えり好みをしないことだというのです。
山頭火の言葉を思い起こしました。
山頭火にある人が
「あなたは禅宗の坊さんですか。私の道はどこにありましょうか」と問いました
それに対して山頭火は
「道は前にあります、まっすぐにお行きなさい」と答えました。
このことについて山頭火自身が随筆の中で、
「私は或は路上問答を試みられたのかも知れないが、とにかく彼は私の即答に満足したらしく、彼の前にある道をまっすぐに行った。
道は前にある、まっすぐに行こう。ーこれは私の信念である。この語句を裏書するだけの力量を私は具有していないけれど、この語句が暗示する意義は今でも間違っていないと信じている。」
と語っています。
そして山頭火は、平常心是れ道という言葉を紹介して、
「道は非凡を求むるところになくして、平凡を行ずることにある。
漸々修学から一超直入が生れるのである。飛躍の母胎は沈潜である。
所詮、句を磨くことは人を磨くことであり、人のかがやきは句のかがやきとなる。
人を離れて道はなく、道を離れて人はない。
道は前にある、まっすぐに行こう、まっすぐに行こう。」
と随筆をむすんでいます。
山頭火は、酒に溺れ、出家して托鉢行乞の暮らしの中から句を作られたのですが、こういう純真な心を持ち続けておられたのであります。
道は平凡の、日常の中にある。
まっすぐ行こうという山頭火の言葉が心に響きました。
横田南嶺