測りすぎ
こんな見出しが目につきました。
毎日新聞の五月二十九日朝刊です。
総合研究大学院大学長の長谷川眞理子先生のコラム記事であります。
「昨今はどんなところでも「数値」が幅を利かせている。
仕事に関して数値目標を示す、いろいろな機関をランク付けする、論文の被引用率によって論文の質を評価する、などなどだ。
それらの数値を材料として、その機関や個人の評価がなされる。
そして、それが客観的で透明性のあるやり方だとされている。」
と今の世の中に行われていることをあげています。
たしかに、数値目標、数字による評価などは、今の時代には欠かせないものとなっていると思います。
学校の成績なども、だいたいが数字で表されるものであります。
そして数字で目標を定めたりもします。
企業においてもおなじようなことでしょう。
数字をグラフにしたりしてより一層数値目標をはっきりとさせたりしています。
しかし、そのような今の世の中に対して、長谷川先生は、
「本当にそうだろうか?
国立大学は、6年ごとに中期目標・中期計画を立て、その達成度を測るための指標を設定せねばならない。
各大学が独自に設定する指標と、文部科学省によって一律に設定される指標とがあり、それらの達成度によって、運営費交付金の額が増えたり減ったりする。
私はこんなことに10年ほど付き合ってきたが、数値目標の設定と達成のための努力とデータ収集は大変な苦労であり、徒労感を覚えることが少なくない。
「評価疲れ」という言葉をよく聞くが、現場は本当にその通りなのである。
これは私たちが真剣に取り組むべきことなのか。このような評価をすることによって、何が具体的に良くなるのか。疑問が尽きないのだ。」
と大きな疑問をなげかけています。
しかし、そうかといって決して数値化することをすべて否定しているわけではありません。
長谷川先生は、
「もちろん、いろいろな成果を数値化して表し、それを公表し、似たような組織同士や個人同士で比較することによって、そうしない時にはわからなかった実態が明らかになり、事態を改善する方策が見つかることもある。」
という評価もなされています。
そのうえで、
「しかし、数値化した指標が、知りたい事柄の実態を本当によく代表しているかどうかは、どうしたらわかるのだろう?」
というのであります。
そこで長谷川先生は、
「そんなことを個人的に考えている時に出合ったのが、ジェリー・Z・ミュラー著「測りすぎ」(松本裕訳、みすず書房、2019年)である。」
と書かれていています。
この本にはどんなことが書かれているかというと、
「本書の中には、私が個人的に思っていたことのほとんどが明確に分析されている。
測ろうとすると、数値で測定できるものしか測定できない
▽そうやって測定できたものが、測定したいものを正確に反映しているとは限らない
▽数値目標の達成度によって資源の配分などを決めると、低い数値目標を置いたり、事柄の分類を変更したりする欺瞞(ぎまん)を招く
▽数値目標の達成こそが目的となり、それが達成されたとしても、その組織や個人が本来やるべき業務はかえって悪化することもある」
などが指摘されています。
その本の著者は、
「これを「測定執着」と呼んでいる」のだそうです。
そして長谷川先生は
「どんな批判があっても、目に見える数値というのは、客観的で真実らしく見えるらしい。日本は欧米に比べて周回遅れで測定執着にはまりこんでいるのではないか。このこと自体の検証が必要と思われる。」
と警鐘を鳴らしているのです。
数値化ということは、ものを分けて分析することから起こります。
そうしますと、私はすぐに鈴木大拙先生のことばを思い起こします。
『東洋的な見方』のはじめにある「東洋文化の根底にあるもの」に書かれていることばです。
「分割は知性の性格である。
まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。
主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。
知るものと知られるものーこの二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。
哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。
それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」
というのであります。
比較から競争が起こります。
数値化というのは、まさに分析であり、比較であり、そこから競争が生まれるのです。
もっとも競争もこの世においては必要な一面もあるのでしょうが、苦しみをもたらすことが多いのも事実なのです。
また同じく『東洋的な見方』には
「アフリカかどこかの土人に、米國か欧洲の人が、「自分らは頭で考へる」と云ったら、土人は、「そりゃ、気狂ひだ、自分らは腹で考へる」と云ったといふ話を、どこかの本で見た。
これは『荘子』の渾沌である。
今日の無意識に相当する。また東洋の心である。
心はどこに在るかといふと、胸か腹である。
頭は身体から離れて存在するともいへるが腹や胸は、内臓全体のことで、つまり人体の主要部である。
手足が動的面を代表するとすれば、腹は人間存在の全面を代表すると見なくてはならぬ。
頭は、目や鼻、耳などのあるところで、知的官能の所在地ゆゑ、抽象的な付属物と見られぬこともない。
「胸がびくびくする」とか、「お腹がひっくり返る」とか、「はらはらする」とか、「腸が九回する」とか「寸断する」とかいふときは、個人の全存在が強迫感に侵されたときである。それゆゑ、「腹」で全身体を象徴させてもよいわけだ。すなはち「腹の出爽た人」とは、「人格者」「人間として成熟した境域」だと見てよい。」ということばもあります。
この腹を中心にするのが東洋的な見方だというのであります。
坐禅はまさしく、腹を中心にしてどっしり坐って分析も比較も競争もすべてを放ち忘れるのであります。
実に空の世界は、分析も比較も競争もないのであります。
この世に生きるには、分析も比較も競争も必要なのはしかたのないことですが、それがすべてではない、空の世界があることを実感していれば苦しみから解放されるのであります。
測ることも必要ですが、測りすぎには気をつけたいものです。
横田南嶺