手放し受けいれる
他の動物に比べて、強い筋力があるわけでもなく、牙がついているわけでもなく、特別に足が速いというわけでもありません。
しかし、現在、この地球上でもっとも大きな顔をして生きているのであります。
なんといっても二足歩行ができるようになって、手が自由に使えるようになったことは大きな進化でしょう。
そして、多くの動物が恐れる火を使えるようになったことも大きなことでしょう。
大脳が発達して言葉を使えるようになって、お互いに考えることを共有して共同作業ができるようになったということも大きなことでありましょう。
この人間の特権のような能力を、藤田一照さんは、手と足と口と脳のはたらきだと仰っていました。
手で自由にものを取ることができる、扱うことができますし、足で自由に移動ができますし、口で言葉を使ってお互いに意思の疎通ができますし、脳をつかってあれこれと思考することができるのであります。
坐禅というのは、この人間の特権的能力を一時的に棚上げするのだと説明してくださいました。
確かに手で何をつかもう、取ろうとするのをやめて手は印を組むのであります。
つかもうという行為をやめるのです。
つかむというのは、自分のものにしようという行為です。
それを棚上げ、一時休止して印を組みます。
坐禅の印にも意味があると思います。
よく臨済宗では、両手を握り合わせて坐ることもあります。
実際にその方が多いようにも思われます。
私もはじめの頃は、手を握り合わせて坐禅していました。
この方法の方が、力が入りやすいように思ったものです。
ところが円覚寺をはじめ、いくつかの修行道場では、法界定印という組み方をしています。
手のひらを上に向けて、両方の親指を合わせるのです。
私も円覚寺に来た頃は、この法界定印になれなくて苦労しました。
しかし、やはりこれは坐禅儀などの書物に書かれているので、意味があるものです。
まずこれは手を握らないのです。
手のひらを上に向けて、手の力を抜くのであります。
力を入れるのではなくて力を抜くあり方なのです。
親指の位置についてもいろいろ研究し、工夫しましたが、究極はあの法界定印の形こそが、もっとも手の本来のあり方、落ち着き方なのだと納得することができるようになりました。
やはり昔から行われていることには意味があるものです。
法界定印というのは、手を握るのではなく、手放すあり方なのです。
それから足は移動ができないように、結跏趺坐という独自の足の組み方をします。
これでは一歩も動けないのです。
この場所から離れることを放棄するのです。
それから口は閉じて、ものをいわない、言葉を使うことをやめるのです。
それから一番やっかいなのが、脳ですが、あれこれと考えることをやめるのであります。
このようにして坐禅というのは、人間の特権的能力を放棄、棚上げします。
そのように人間の活動をしずめないと、現れないものがあるのだと一照さんは説明してくださいました。
「ふだんのはたらきをやめて、未知のはたらきを全面に出すのだ」というのでした。
究極は、この坐って息をしているだけで、奇跡だということなのです。
生命の誕生以来、いやもっとこの大宇宙が誕生して以来百三十八億年の営みがこの身心のうえにあらわになっているのです。
そのことを実習するのが坐禅であって、一照さんは道元禅師の『正法眼蔵、生死』の巻にある言葉を引用されました。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、ほとけのいへになげいれて、ほとけのかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれずこころをもつひやさずして、生死をはなれほとけとなる」
という言葉です。
私も、この道元禅師の言葉は坐禅の究極を表していると思っています。
この言葉を一照さんは三つに分けて解説してくれました。
まず一番目は、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、ほとけのいへになげいれて」というところで、これは手放すことだというのです。
それから二番目は、「ほとけのかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき」であって、これは迎え入れることだと言われました。
そして三番目が、「ちからをもいれずこころをもつひやさずして、生死をはなれほとけとなる」であって、これが享受することだというのであります。
手放し、受け取り、享受するという三つなのであります。
この三つを調身、調息、調心の三つに当てはめて行うのであります。
調身では、手放すというのは、この体の体重を大地に全部預けるのです。
受け入れるというのは、大地の支えによって垂直に坐るのです。
享受するというのは、大地との一体感を味わうのです。
調息においては、手放すということは、吐く息を余すところなく捧げることで、受け入れるというのは、入ってくる息を贈り物としてフルに受け取ること、享受するのは、呼吸の快感を味わうというのであります。
調心、心を調えることにおいて、手放すというのは、感覚器官をくつろがせ開くこと、受け入れるというのはやってくる感覚刺激をそのまま迎えいれること、享受するというのは、刻々の生をその新鮮さにおいて味わうことだと解説してくださいました。
今まで何度も読んでいた道元禅師の言葉を、実により一層深く味わうことができました。
やはり手を組み、足を組んでただ坐る、坐禅は素晴らしく、まだまだ奥が深いと思うのであります。
横田南嶺