息を数えることの深い意味
一照さんの講座は、とても人気があって、修行僧達と共に近在の和尚様がたも参加されています。
毎回一照さんの坐禅指導には驚きと発見、深い学びがあるものです。
アイスブレイクということがあると、私は一照さんの講座ではじめて知りました。
アイスブレイクというのは、硬い氷をこわすという意味で、初対面の者同士が出会ってその緊張を解きほぐす手法のことであります。
まず今回は、このアイスブレイクの話から始まりました。
一照さんは、アイスブレイクだと、まだ壊したあとに固体としての粒が残るので、アイスメルトという表現をしたいと仰っていました。
固体のように形があるのではなく、形がなくなってしまうのです。
自他の区別が存在なくなることを目指すのであります。
自我が溶けてしまえば、苦しみがなくなるので、なるほどメルトという言葉はいいと思いました。
部屋のマインドと私のマインドの区別がない状態というのが、本当の私に近いのだ仰っていました。
そこで今回のアイスブレイクは、大相撲の塵手水でありました。
塵手水というのは、『広辞苑』を調べると、
「手を清める水のない時、空の塵を捻って手を洗うかわりとすること。
力士が土俵に上り、取り組む前に行う清めの礼式。
徳俵で蹲踞、拍手した後、手のひらを上に向け、両手を左右に開き、手のひらを下に向けてかえすこと。」
と解説されています。
大相撲の力士が、これから相撲を始める前にやっているものです。
この塵手水は以前にも習ったことがあります。
しかし、こんなに深い意味があるとは知りませんでした。
単なる形式、儀礼ではないのであります。
まずお互いに正坐して向き合って、片方の者が、もう一方の方の右肩を左の方に向けて押します。更に今度は左の肩を右の方へ向けて押してみます。
そうすると、不思議なことに、右に傾くのは耐えられるのですが、左の方へ押されると、ふっと体が浮いてしまうのであります。
これは右利き、左利きに関係がないそうです。
そこで、この大相撲の塵手水を行ってから、同じことを行うと、今度は両方ともしっかりと安定して耐えることができるのです。
一照さんは、塵手水の型が生み出す勁道の通った勁さだと仰いました。
ある一定の型を行うことによって、体が自然と調うということがあるのです。
トップダウンよりボトムアップということも教わりました。
トップダウンというのは、自分が強い意志をもって何かをしようとすることです。
たとえば、背筋をまっすぐに伸ばそうと意識を強くもって行うのです。
それに対してボトムアップというのは、背筋が伸びるというのです。
背筋がまっすぐになる条件を調えると、背筋が伸びるようになるというのです。
強い意識で行うのを強為といい、自然と行われるようになるのを云為と表現されていました。
背筋をまっすぐにということだけでも、意志の力だけでやってしまうと、無理に緊張してしまい、余計な力が入って凝りになってしまったり、終わったら疲れてだらけてしまうのであります。
自然な無理のない背筋の伸びたあり方というのは、体にも心地よく、長続きして落ち着くのであります。
このように条件を調えることによって、自然と調ってくるというものです。
ブッダは「調えられし自己こそ真の拠り所である」と仰せになったのでした。
そこでおもしろいことを教わりました。
これもお互いに正坐して対面して、相手の胸のあたりを強く押すのでした。
すると相手は、うしろに倒れてしまいます。
そこで、「ひーふーみーよー」というように数を数えると、体がしっかりと安定してうしろに倒れなくなるのです。
腰が決まって体の土台が安定するのです。
しかし、そこで、英語の「ワン、ツー、スリー、フォー」と数えると、途端に体はうしろに倒されてしまうのです。
「ひーふーみーよー」というと、体の重心は下におりて安定し、「ワン、ツースリー、フォー」というと、重心がふっとあがってしまうのです。
言葉と発声によっても体の調い方が異なるというのでありました。
そこで、私は数息観を思い出しました。
呼吸を数えるのにも「ひとーつ、ふたーつ、みーつ、よーつ」と数えることに意味があるのだと思いまいた。
あるいは「ひー、ふー、みー、よー」と数えるやり方も教わったことがあるのです。
このように息を数えることは、自然と腰が安定して、重心が下に下がって落ち着くのだと思いました。
大相撲の塵手水にしてもその深い原理を理解して行っている人は少ないのかもしれません。
私たちの数息観にしてもただ呼吸を数えて心を調えるのだと思っていますが、この息の数え方にも深い原理があるのだと気がついている人は少ないと思いました。
この「ひーふーみーよー」というのは、神道の祝詞でもあると学んだことを思い起こしました。
一照さんは、私たちがこの宇宙について知っているのは全体の三パーセントほどであり、残りの九十七パーセントは知らないのだと言われました。
この割合はいろんなことに共通らしく、脳のはたらきもわかっているのが三パーセントほどであり、九十七パーセントはわかっていないし、DNAのはたらきもわかっているのは三パーセントほどであり、九十七パーセントはわかっていないのであり、意識していることが三パーセントほどであり、無意識が九十七パーセントだと説明してくれました。
私たちには、まだまだわからないことがいっぱいあるのです。わかっていることなどわずかなのだということです。
あまり意識せずに行っていることにも深い意味があるのだとわかりました。
そうして自己を調えてゆくのですが、調えられた自己というのを道元禅師は「尽一切自己」と表現されたそうです。
これを一照さんは、ぼくの中身は宇宙なのだと表現されました。
これも深い言葉であります。
そのようによく調えられた自己を実現するのに、調身、調息、調心の三つがあるのです。
調身は姿勢、大地とのつながり方の調和、調息は呼吸であり、大気とのつながり方の調和であり、調心は心、六つの感覚器官とのつながり方の調和と学びました。
無理に力を入れて調えるのではなく、ある条件を調えることによって、自ずから調うというあり方を探求してゆきたいものだと思いました。
それにしても昔からずっと伝わってきた数息観、これにも気がついていなかった深い意味があると学びました。
今回も学ぶ楽しみを満喫しました。
あっという間の三時間でありました。
横田南嶺