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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.05.22
今日の言葉

死を迎える

もう十年以上も前、あの猫を見つけた日のことを思い起こします。

雲水達が集まって騒いでいるので、何ごとかと思って聞いてみると、猫を見つけたというのでした。

まだ目もあかない小さな子猫で、私が見た感じではもう死にかけているようでした。

そこで、私は試しに「君ら、この猫をどうする?」と聞いてみました。

すると一人の雲水がまっ先に手をあげて「私が病院につれて行きます」と言いました。

当時の私には「病院につれて行く」という発想がありませんでしたので、少し驚きましたが、彼がそう言うのならと病院につれて行ってもらいました。

以来、その雲水がミルクをやったり、薬を与えたり、通院したりと、つきっきりで世話をしました。

子猫は修行道場の中にある「病僧寮」という病気になった修行僧が休む部屋で保護されて、すくすくと育ちました。

その猫は、しばらく修行道場で暮らしていたのでした。

すっかり元気になったので、本山の職員さんにお世話をお願いすることにしました。

「しいちゃん」と名前をつけられたその猫は、その後円覚寺の人気者になっていました。

修行道場にいた頃の名は、しのぶちゃんだったのでした。

最近具合が悪いようで、今後の治療をどうしたらいいか相談していた矢先、五月二十日の未明に息を引き取りました。

早速寺にいる者で読経をして葬儀をすませたのでした。

この猫のことは、私の著書『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう』(PHP研究所)にも書いています。

その本には、

「仏教ではキリスト教に比べると、あまり「愛」という言葉を使いません。

「愛欲」「執着」など、むしろ消極的な意味で使うほうが多いでしょう。

それでも、「いのちあるものに対して、無量のいつくしみを起こすべし」と教えているのも仏教です。

真民先生はこう書いています。

生きることとは
生きとし生けるものを
いつくしむことだ
野の鳥にも草木にも
愛の眼を
そそぐことだ
(『生きることとは』より)

いのちあるもの、一匹の猫、一羽の鳥、一匹の羊を救いたい。一人の人を救いたいという、これが愛の原点です。

世の中は消えていく、無常のものではあるけれども、その中に本当に消えない愛の心があるのだということを信じて、「心の愛」に生きること。

それが人を救うだけでなく、自分自身も強くしていくのです。

人を救うと、救った人も救われます。

愛の心を持てば、一番救われるのは自分自身です。」

と書いています。

思えば多くの人に愛された猫だったと言えましょう。

一人の修行僧の愛情のおかげで生きることができて、円覚寺の総門にいては、多くの拝観の皆様に愛されていました。

私などが、歩いても写真に撮られることはありませんが、この猫はいつも多くの人から写真に撮られていました。

海原純子先生の本にもその写真が載ったことがありました。

『こんなふうに生きればいいにゃん』という本でした。

私が門を通る時にも多くの人からかわいがられている様子を目にしたものでした。

二年前のコロナ禍で最初の緊急事態宣言の時には、境内には誰も人がいなくなって、寂しそうにしていたことを思い起こしました。

私が近寄ると不思議そうにしていましたので、これこれこういう訳で人間界は今コロナ禍といって、皆外にでないのだと話して聞かせたこともありました。

猫の眼に、この人間界の移ろいはどのように見えていたのでしょうか。

折から洞山良价禅師の語録を読んでいるとこんな問答がありました。

道場で修行僧が亡くなったのです。

ある僧が

「あの亡くなった僧はどこへ行ったのでしょうか」

と尋ねると、洞山禅師は、

「火葬の後に一本の茆が生えている」

と答えています。

この問答について、余語翠厳禅師が『瑞州 洞山録 「洞山録」ものがたり』(大本山総持寺出版部)で次のように語っています。

「洞山さまは「火葬がすんだ後に、或は灰の始末をした所に茆が生えることだろう」と云う。

謎のような言い方である。生死の問題は重大なこととされる。生死の大事を決択しなければならぬとされる。

されど生死の問題を決択しなくても生きてはいる。

どのように決択しようとするのか。

また一面から見れば生死のことを決択せねばならぬとして驀直にとりくんでいる人々にとっては大事なことであるかも知れぬが、一面にはそれほどでないかも知れぬ。」

と語っておいて、

更に

「火後一本の茆ということは、万物は生きとうしに生きていることである。

「生死の中に仏あれば生死なし」と云うことである。

天地のいのちの或る時は生と云うかたち、或る時は滅と云うかたちと云うのである。

真生真滅であるから天地法界のいのちを殺すことは出来ないのである。」

「天地一杯の仏の御いのちに生滅はないことであり、生滅という形に於いて天地のいのちの歩みがあるわけである。」

「庵主はどこへも行きはしないのである。生死巌頭に立ってじたばたしないようになんて殊勝なことは考えない方がよい。お任せしておけばよい。生死は人間のそろばん外の天地のパフォーマンスである。」

と説かれています。

猫の葬儀をしようとお経を読みにゆくと、なんとも穏やかに、昼寝しているかのように眠っていました。

穏やかな最期の表情を見て安堵したのでした。

天地いっぱいの仏のいのちを、この猫は生きたのだろうと手を合わせました。

坂村真民先生の「生きることとは」の全文を紹介しましょう。

  生きることとは
生きることとは
愛することだ
妻子を愛し
はらからを愛し
おのれの敵である者をも
愛することだ

生きることとは
生きとし生けるものを
いつくしむことだ
野の鳥にも草木にも
愛の眼を
そそぐことだ
生きることとは
人間の美しさを
失わぬことだ
どんなに苦しい目にあっても
あたたかい愛の涙の
持ち主であることだ

ああ
生きることとは
愛のまことを
貫くことだ

 
横田南嶺

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