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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.05.21
今日の言葉

変わらないもの

先日築地本願寺の銀座サロンで法話をした折には、「変わらないもの」という題で話しました。

なんといっても、コロナ禍と言われるようになったこの二年数ヶ月の間に、世の中は大きく変化しました。

あまりにも急激な変化でしたので、戸惑うことが多かったのでした。

しかしながら、それでも冷静に見れば、世の中はすべて変化してやまないものであります。

変わらないものはないというのが真理なのであります。

かの白隠禅師は、わずか五歳の時に、浜辺に出て遊んでいて、空に雲が行き来して、現れたかと思えば、また消えてゆくさまを見て、世間の無常なることを観じて、しばし泣いていたという話があります。

まわりの者たちは、楽しそうに浜辺で遊んでいる中、一人海を見つめ、雲を眺めて涙されたというのですから、幼少の頃から非凡なるところがあったのだと察します。

深く無常を観じる心は、そのまま変わることのない真理を求める心に通じます。

そうして白隠禅師は幼少の頃から仏道を求めるようになっていったのでした。

移り変わりゆく世の中にあって、変わることのないものとして仏道を求めたのであります。

円覚寺などは、七百三十年前から、今日までずっとあり続けていますが、変わらないものというのはないのです。

創建当初の建物はどこにも残ってはいません。

舎利殿などは、創建時からのものと伝えられていましたものの今日では、移築されたものだという説になっています。

それに関東大震災で、倒壊していますので、大部分の柱などは新しくなっています。

こけら葺きの屋根などは、数十年に一度ずつ葺き替えています。

開山仏光国師のお木像や、宝冠釈迦如来の頭部、国宝洪鐘などは創建時のものではありますが、やはり創建時からは年を経て変化しているものなのです。

目に触れるもの、耳に聞こえるもの、体に触れるもの、悉くはすべて変化してやまないものです。

刹那滅と申しますが、一秒間に七十五回も生滅を繰り返しているのです。

そこで、変わらないものはないという真理のみが不変なのです。

仏教では、その真理を三つ説くのであります。

それが「三法印」というものです。

岩波書店の『仏教辞典』には、

「仏教教理の特徴をあらわす三つのしるし。

あらゆる現象は変化してやまない(諸行無常)、

いかなる存在も不変の本質を有しない(諸法無我)、

迷妄の消えた悟りの境地は静かな安らぎである(涅槃寂静)の三つをいう。

これに<一切皆苦>を加えて<四法印>とすることもある」

というものであります。

法句経の277番に 、

「すべての行は無常なり」と かくのごとく 智慧もて知らば 彼は その苦をいとうべし これ清浄に入るの道なり。」

とあり、

また279番に 、

「すべての法は わがものにあらず」と かくのごとく 智慧もて知らば 彼は そのくるしみを厭うべし これ清浄に入るの道なり。」

と説かれる通りなのです。

そのように無常であり無我であることを、よく智慧をもって見て、法句経の281番にあるように、

「ことばをつつしみ、意(おもい)をととのえ 身に不善(あしき)を作さず この三つの形式(かたち)によりて おのれをきよむべし かくして 大仙(ひじり)の説ける道を得ん。」

という生き方を実践してゆくのが仏道なのであります。

お釈迦様が、

「人は、生れによって賤しい人となるのではないし、生れによってバラモンとなるのでもない、

行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」

と説かれたように、変化しない実体がないからこそ、思いと行いによって、自己を変えてゆくことも可能なのであります。

思考と言葉と行動によって、人格は形成されてゆきます。

そこで戒というものが説かれるのであります。

十善戒は何度も紹介していますが、

不殺生 あらゆる生命を尊重しよう
不偸盗 他人のものを尊重しよう
不邪淫 お互いを尊敬しあおう
不妄語 正直に話そう
不綺語 よく考えて話をしよう
不悪口 優しいことばを使おう
不両舌 思いやりのあることばを話そう
不慳貪 惜しみなく施しをしよう
不瞋恚 にこやかに暮らそう
不邪見 正しく判断しよう

という十のよき習慣を身につけて生きようという教えであります。

邪見というのが最後にありました。

私たちは誤ったものの見方をしています。

それを四つ説いています。

無常であるのに常に変わらないと思いこみ、この世に生きることは苦であるのに楽だと思い込み、変わらぬ我というのはないのにあると思い、この身は不浄なのに清らかだと思い込むのです。

常楽我浄の四つは実は誤ったものの見方なのです。

そこで、邪見を離れた真理は、世は無常であり、この世に生きることは苦であり、我というものは無いのであり、この身は不浄だということであります。

そこから更に大乗仏教では、涅槃すなわち悟りの世界は、永遠であり、楽で清らかなものだと説くようになりました。

煩悩を滅した涅槃の世界こそが、常であり変わらない世界であり、苦しみのない楽であり清らかだと説くようになったのでした。

そこで常楽我浄は涅槃の世界を説く言葉に変わっていったのでした。

やはり無常、無我、苦、不浄という否定的な教えだけでは伝わりにくかったのかもしれません。

そこから、更に具体的に、涅槃の世界を浄土という素晴らしい世界として表現して、絵に描いたり、実際の庭園などで現すようになりました。

また、禅では、仏心の世界を説くようになっていったのです。

仏心は、永遠に安らかな、永遠に清らかな、永遠に静かな光明に満たされている世界であります。

そして、仏心には罪や汚れも届かないから、仏心はいつも清らかであり、いつも安らかであります。

これが私たちの心の大本、本心なのだと説くのであります。

そしてその仏心というのは、大いなる慈しみ、あわれみの心だと説いているのであります。

仏心は大慈悲の心なのです。

実にこの慈悲の心こそは、変わりゆく世の中にあって、変わらぬ真理なのであります。

本日をもって毎日の管長日記がなんと五百回となりました。

いつもご視聴いただいている皆様には厚く感謝します。

聞いてくださる方のおかげで続けることができました。

有難うございます。

 
横田南嶺

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