五蘊をどう説くか
一回目の講義を花園大学の講義動画で公開してくださっていますが、これが実に思いもしなかったような大勢の方にご視聴いただいていて有り難いことであります。
一回目には、般若心経の空という真理を理解するために、「実体は無い」とはどういうことなのかをいろんな喩えを用いて話をしました。
般若心経は、空を説いた教典でありますが、空とはどういうことか理解するのが容易ではありません。
解説書には「実体がない」と書かれていることが多いのですが、「実体がない」とはどういうことなのか、これが一番難しいところだと思います。
そこで、燃焼の三要素の話をしたのでした。
火というのは実体がありません。
ゆらゆら揺れているだけで、これだといってつかむこともできません。
燃焼に必要なのは三つの要素です。
可燃物、酸素供給体、点火源の三つです。
ろうそくの火で申し上げると、ろうそくという可燃物に、空気中にある酸素と、点火源としてマッチという三つの条件がととのって、はじめて火がつくのです。
火には実体がないのです。
三つの条件がそろってかりに現れているものに過ぎないのであります。
私たちというのは、五蘊という五つの条件がそろって仮に現れている現象なのであります。
五蘊をどのように説明したらよいのか、あれこれと考えて、私は、福島智さんの話をしました。
『ぼくの命は言葉とともにある』(致知出版社刊)を参照しながら話をしました。
福島さんは東京大学の教授でいらっしゃいます。
世界で初めて常勤の大学教員となった盲ろう者とも言われています。
福島さんは、三歳で右目の、九歳で左目の視力を失い、十四歳で右耳の、十八歳で左耳の聴力までを奪われ、光と音の世界を喪失したのでした。
そのときの感覚を、
「宇宙空間の中にたった一人だけおかれたような酸素ボンベから少し酸素が送られてきたかと思ったら、すぐに止まってしまうという非常に不安な状況」だったと書かれています。
そんな福島さんに、母が最初に指点字で呼びかけました。
指で点字を打って伝えたのであります。
それは「さとしわかるか」という言葉でした。
それが、「今から思えば真っ暗の宇宙にたった一人漂う私に、再び光を当ててくれた瞬間だった」というのであります。
何も見えない、何も聞こえないというは、真っ暗な宇宙に一人漂うようなものなのです。
世界は真っ暗闇なのです。
そこで言葉が伝わって初めて世界が現れるのです。
聴覚を失った方の話をうかがったことがあります。
音が聞こえないというのはたいへんな状況になります。
車のクラクションも聞こえないのですから、危ないものです。
手術によって人工内耳を埋め込んだそうなのです。
人工内耳を備えても、音は感じるのですが、今までの音の認識とはむずびつかず、苦労されたようなのです。
感覚器官があって、音を感受することができても、それだけは認識にはつながらないのです。
リハビリをして、今までの音の記憶と感じた音をつなげるようにするのだと言っていました。
感じるだけは認識にはならないのであります。
わけのわからない音声が響いているだけだろうと察します。
五蘊というのは、色受想行識の五つです。
色というのは物質すべてを言いますが、このお互いの体です。
この体に感覚器官が具わっています。
感覚器官に触れたものを感じるのが感受という「受」なのです。
感受がなくなれば、認識は起きませんので、真っ暗闇の宇宙になってしまうのです。
感じたことに、想念がはたらきます。これが「想」です。
想念は更につよい意志となってきます。これが「行」です。
そうして認識を生じるのであります。
みな条件によって作られてゆくのです。
講座の台に水とコップがあったので、五蘊を実演して説明してみました。
まず水を一口飲んで言いました。
水が喉を潤すのを感じるのです。これが「受」です。
冷たいな、気持ちいいな、おいしいなと思うのが「想」です。
おいしいからもういっぱい欲しいというのが「行」なのです。
もういっぱいいただいて、やはりこれはおいしい水だ、水は喉を潤してくれいいものだ、長い時間話をするのに水を飲むと楽になるという認識を生じるのであります。
赤ん坊が生まれた時もそうなのです。
母親に抱かれて、母のぬくもりを感じるのです。
心地よいと思うのです。
もっと抱かれていたいという意志になるのです。
ミルクを欲しいと思うのです。
そうして母は私にとって大事な存在だ、やさしい母だという認識を作り上げるのです。
私たちが自分と思っているもの、その自分が住んでいると思っているこの世界もみな五蘊によって作り上げられたものです。
ダライ・ラマ猊下は『般若心経を語る』という本の中で、
「われわれ、自分自身の存在も、世界も宇宙も一切がこの五蘊の各要素からできている。
大切な事は、五蘊のほかには全宇宙に何もないということである。」
と書かれている通りなのです。
『般若心経』のサンスクリット原典には、
「求道者にして聖なる観音は、
深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。」
と書かれているのです。
私たちが自分と思っているものも、この世界も五蘊によって作り出された現象なのです。
まずそのことをよく理解することから『般若心経』は始まるのです。
学生さんたちに五蘊をどう説いたら伝わるだろうかと、いろいろ苦心したのでした。
どう説いたら伝わるのか、このことをいつも考えています。
今回の講義も前回と同様に学生さんたちも熱心に聞いてくれたので話をする方も力が入りました。
六月には創立150周年記念行事が控えていて、新しい校舎もほぼできあがり、西の門の整備も進んでいて面目一新するようであります。
横田南嶺