出入りの息はお経そのもの
この頃は、書店にうかがうことも少なくなってきました。
古書なども目録などで、だいたい把握しているつもりでありますが、ぶらりと入る書店では思いもしない本との出会いがあるものです。
京都の古書店は、かつて建仁寺で修行していた折にもよく訪れたお店であります。
お店の人はすっかり入れ替わっていますものの、お店のたたずまいは昔のままで懐かしく思いました。
また古書の独特の香りもなんともいえないものであります。
『禅話の泉』という小さな本を見つけました。
禅関係のものはたいがい把握しているつもりでも存じ上げない本でしたので、購入しました。
大正九年に、禅書刊行会から発行されたものであります。
古今の禅話が満載の書物であります。
この時代の本によくあることですが、あきらかに誤植だろうと思われるところが、数ページを開いただけでも気がつきます。
この手の本は、今のように引用にしてもはっきりと原典を確認しているとも限らないので、どの話がどこまで信憑性があるのかわからないところがあります。
何かに引用するときには気をつけないといけません。
そんなことを承知の上で、いろんな逸話があるので読んでいて楽しいものです。
建長寺の大覚禅師と一遍上人との出会いの問答が載っていました。
私も初めて知る話であります。
大覚禅師は1213年の生まれで、1278年にお亡くなりになっています。
一遍上人は、1239年のお生まれで、1289年にお亡くなりになっていますので、時代は重なっています。
しかし、一遍上人が鎌倉に入ろうとされたのが、弘安五年1282年なので、そのときには大覚禅師はもうお亡くなりになっています。
鎌倉入りを目前に小袋坂(現、鎌倉市小袋谷付近)で行く手を阻まれたということであります。
大覚禅師がお亡くなりになった頃、一遍上人は、九州から四国に帰り、更に広島などに赴いている時であり、都に向かったのが明くる弘安二年ですので、大覚禅師との出会いについて信憑性が薄いと思われます。
あくまでも一つの話として読んでおきます。
一遍上人が建長寺の大覚禅師を訪ねた折のこと、大覚禅師は端座黙然としておられました。
坐禅なさっていたのでした。
その様子をご覧になった一遍上人は、
踊りはね申してだも叶はぬに
居眠り半分いかがあるべき
と詠ったのでした。
踊り念仏の一遍上人ですから、力一杯踊りはねて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏してもなかなか浄土参りは難しいのに、居眠り半分の修行で御利益があるのかというところです。
それに対して、大覚禅師は、
踊りはね庭に餌拾ふ小雀が
鷲の心をいかで知るべき
と返したというのです。
庭で踊りはねている小雀に、大空を飛ぶ鷲の心はわからない、鷲と私をかけて、あなたのような踊りはねて念仏しているものに、私の坐禅はわからないということでしょう。
はじめて知る話ですが、後世の作り話だと思います。
その話のあとに、般若多羅尊者の話が載っていました。
こちらの話は伝灯録などにもあるものです。
『従容録』には第三則として取り上げられています。
『従容録』の本文は
「東印度の国王二十七祖般若多羅を請して斎す。
王問うて曰く、「何ぞ看経せざる」
祖云く、「貧道入息陰界に居せず。出息衆縁に渉らず。常に如是経を転ずること百千万億巻」」
というものです。
およその意味はというと、
東印度の国王が二十七祖般若多羅尊者を招待して食事を供養しました。
そんな時には説法をし、お経を読むものなのですが、この時般若多羅尊者は説法も読経もしないで帰ろうとしたので、
「どうして経を読まないのですか」と聞きました。
般若多羅尊者は、
「私は、入る息は五蘊にとどまってはいませんし、出る息はあらゆる縁にとどまってはいない、いつもこのようなお経を百千万巻唱えている」と答えたというのです。
『禅話の泉』には
「常に挙足下足にも起臥共に如是経の転読である、即ち手の舞い足の踏む所、一として如是経の転読でないものはない、それ見よ、喫茶是れ如是経、放尿是れ如是経、喫飯是れ如是経、問答是れ如是経、四六時中皆如是経の綿々たるものでる。
此の百千万億の転如是経の外に何を苦しんで、一巻両巻の転読をせねばならぬか」と
説かれています。
余語翠厳禅師は、『従容録 上巻』(地湧社)のなかで、
「私は入る息も出る息も全部如是経を転じています」と書かれています。
如是経とは何かというと、余語禅師は、如というのは天地のいのちであり、
「如という天地法界のいのち、無限のいのち、仏の御命、そういうものを形ある姿にここに是として現じておる」
と表現されています。
この出入りの一呼吸一呼吸が、この上なく有り難い経典であり、天地無限のいのちそのものなのであります。
横田南嶺