この浮世を生きねばならぬ
「多くの辞書が 「浮世」をふたつに分けて載せている。
「うきよ」と「ふせい」である。
新明解国語辞典(三省堂) はとりわけ、語釈のちがいを鮮明にしている、
「うきよ」を引くと、〈(思うようにならない、また、つらい事の多い) この世の中〉とある。
これに比べて、「ふせい」はかなり警句的だ。
〈善き意志が必ず正当に報いられるとは限らず、むしろ悪の論理が罷り通るかに見える、この世〉
身を置くなら、どちらも遠慮したいけれど、日々のニュースに触れていると、後者がずしりと重く感じられる時世だろう」
というのであります。
うきよとふせいにそんな違いがあるのかと興味深く思っていろいろと調べてみました。
まずは『広辞苑』を調べてみると、
うきよは、「憂き世、浮世の二つの漢字がでていました。
意味を調べると、まず(仏教的な生活感情から出た「憂き世」と漢語「浮世ふせい」との混淆した語)と解説されています。
①に「無常の世。生きることの苦しい世。」として、伊勢物語から「散ればこそいとゞ桜はめでたけれ 浮世になにか久しかるべき」という用例があります。
「つらく苦しい浮世」という用例もありました。
次に②に「この世の中。世間。人生。」という意味で、太平記(11)「今は浮世の望みを捨てて」という用例や「浮世の荒波にもまれる」という用例がありました。
それから③に「享楽の世界。恨の介」として「心の慰みは浮世ばかり」という用例があります。
そして④に「近世、他の語に冠して、現代的・当世風・好色の意をあらわす」という解説もありました。
では「ふせい」ではどうかというと、『広辞苑』には、
ふ‐せい 【浮世】
「うきよ。はかないこの世」という解説のみで、日本永代蔵(1)の「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢まぼろしといふ」という用例があるのみなのでした。
読売新聞で「新明解国語辞典(三省堂) はとりわけ、語釈のちがいを鮮明にしている」というその通りなのでした。
諸橋轍次先生の『大漢和辞典』で「浮世」を調べてみても
「うきよ。定めない世の中」「今の世の中、今様、当世風」「いろごのみ。好色」という意味が出ているのみでありました。
それならばと岩波書店の『仏教辞典』を調べてみると、長い解説がありました。
まず、「定めない世の中、無常の世。3世紀、竹林の賢人として有名な魏の阮籍(げんせき)の『大人先生伝』に「浮世に逍遥して道と倶に成る」とあり、この「浮世」は『荘子』刻意の「其の(世に)生くるや浮かぶが若(ごと)し」に基づく。」
と書かれています。
『荘子』がこの世に浮かぶようなものだと表現したのが、もとになっているとわかりました。
それから更に『仏教辞典』では、
「仏教との関連では、晩唐の詩人盧延遜(ろえんそん)の<僧に贈る詩>に「浮世と浮華と一に空(くう)に断ち、偶(あまね)く煩悩を抛(なげう)って蓮宮(浄土)に到る」とあり、俗世と同義。」
とございます。
「浮華」というのは聞き慣れないのですが、
「うわついていて、華やかなこと。外面だけ華やかで実質のないこと」を意味します。
更に『仏教辞典』では
「これを受けて、わが国でも<浮世><浮生>の漢語は定めない世の中、はかない人生を意味した。」
と書かれていて、「ふしょう」という言葉も出ています。
浮かぶの「浮」という字に、生きる「生」という字を書きます。
これは、「はかない人生。はかない生活。ふしょう」ということなのです。
更に『仏教辞典』は、
「しかし平安時代に入ると、つらい世の中を嘆く心情が仏教的無常観と結びついて<浮世>を詠嘆的にとらえ、その訓読語の<浮き世>に同音の<憂き世>を当てて嘆かわしい現世を意味する用法が一般化し、その表出が和歌や物語の一つのテーマともなった。」
と書かれています。
平安時代に、この浮世という言葉に仏教的無常観が結びついて、物憂いの憂いという字をあてて「憂き世」と当てるようにもなったというのです。
それから更に『仏教辞典』には、
「それが再転して、どうせままならぬ世なら、せめて浮き浮きと楽しくという気持をこめたのが、近世的<浮世>の語義である。
近世に入ると、現実を肯定的に生き、刹那刹那を楽しもうとする風潮が一般に広まる。
そこで、現在流行の風俗的なものに<浮世>という語を冠することになる。
当時の風俗を描いた小説の<浮世草子>(その書名にもたとえば『浮世栄華一代男』など)、あるいは<浮世絵><浮世模様>などがそれである。さらには遊里での遊びの意にも用いられた。」
というように変化してゆくのであります。
まとめてみますと、もともと『荘子』にあるこの世に浮かぶようなところから、浮世という言葉が生まれて、定めない世の中という意味で使われていました。
それが日本の平安時代になって、仏教的な無常観と結びついて、憂いの世の中になり、更にどうせままならぬ世の中ならば、せめて浮き浮き暮らそうという意味に使われるようになったということなのであります。
浮世にまつわることわざもいろいろあります。
「浮世は夢の如し」というのはわかりやすいものです。
「憂き世は牛の小車」というのは、「牛」に「憂し」をかけて、この世はつらく苦しいことばかりめぐってくるものだという意味であります。
「浮世一分五厘」というのもあります。これは「浮世三分五厘」とも申します。
「世間を軽く見てのんきに世をすごすこと」です。
「浮世寺」というのもあって、これはどういうことかというと、なんとなまぐさ坊主のいる寺のことだそうです。
『禅林世語集』には、こんな和歌がございます。
「浮世をば何のへちまと思えどもぶらりとしては暮らされもせず」
というのであります。
また
様々に浮世の品は変れども死ぬる一つは変わらざりけり。
という和歌もございます。
浮世の意味は、いろいろ変化するものであり、この浮世の中も様々な変化がありますが、しかし、人間は死ぬものであるという真理は変わることはないのであります。
その死を迎える時まで、この生き難い浮世を生きねばなりません。
坂村真民先生の詩を読みましょう。
南無の祈り
生きがたい世を
生かしてくださる
南無の一こえに
三千世界がひらけゆき
喜びに満ちて唱える
南無の一こえに
この身かがやく
ありがたさ
ああ
守らせ給え
導き給え
(『坂村真民全詩集第五巻』より)
横田南嶺