常に前進あるのみ
これは団体参拝の略語であろうと思っています。
お寺の檀家さん、信者さんたちが、そのお寺の和尚様の御引率のもとに、お参りくださるのであります。
そのお寺が円覚寺派のお寺であれば、みんなで自分たちの本山にお参りしようということになるのであります。
円覚寺派以外の臨済宗のお寺の場合もございますし、臨済宗以外の宗派のときもございますが、いずれも同じであります。
こういうときには、円覚寺側も心を込めておもてなしを致します。
ご到着をお出迎えして、本山の書院でお茶を召し上がっていただいて、しばし休息して、そのあと大方丈で、各家ご先祖のご供養を致します。
この読経も一人か二人で行うのではなく、円覚寺の本山の和尚たちが出頭して行います。
そのあとに管長が法話をします。
法話をして、記念撮影をして、それから精進料理を書院で召し上がっていただきます。
お昼のあとは、国宝舎利殿をお参りしていただいて、お見送りをするというものであります。
国宝舎利殿は、普段公開されていない円覚寺のもっとも大切な建物ですので、特別にお参りしていただくのであります。
バスガイドよろしく、本山の和尚が案内や説明をさせてもらうのであります。
この「だんさん」が久しぶりにありました。
あまりに久しぶりなので、私も時間割を忘れていて、担当の部長さんに聞こうとしたら、「私、だんさんははじめてです」というのです。
こちらの本山に勤めるようになって二年半経つ方ですが、それがはじめてというのですから、二年半は行わなかったことになります。
実にこれも三年ぶりなのだとわかりました。
三年前までは、けっこう行われていたのでした。
お寺にお参りするというと、妙好人の庄松さんの話を思い起こします。
ある日、庄松さんが村の知人とふたり連れだって香川県の三本松にある勝覚寺さまにお詣りしました。
すると庄松さんは本堂にあがるなり、「ああ疲れた疲れた」といって、仏様にお参りもせずに、畳の上に寝ころんだのでした。
それを見た知人が「これこれ庄松さん、何ということかいな。御仏前に寝ころんで、ご無礼なことを…」ととがめると、庄松さんはにこにこして、
「何をいう、親の家じゃ、遠慮にはおよばん」と言われたというのです。
それでも知人は「そういっても御仏前に…」というと庄松さんが「そういうおまえは義子(義理の息子)であろう」といわれたという話です。
庄内さんの「親の家じゃ、遠慮にはおよばん」という言葉に温かみを感じます。
庄松さんは、本当に心の底からお互いは仏さまの子であると受け止めていたのでしょう。
これも私の好きな話なのであります。
ただどこかの本山にお参りしたときの話かと思っていましたが、先日上京した折に、書店で『妙好人のことばー信心とその利益ー』という本を買って、パッと開いてみると、この庄松さんの話が載っていたのでした。
庄松さんのいらっしゃった今の香川県東かがわ市から、三本松の勝覚寺までは約四キロの距離のところにあるとわかりました。
お寺にお参りすると、みな緊張するものでありますが、先日の団参の法話でも最初にこの話をしておくつろぎいただくようにお話したのでした。
先日知人からの便りで、大本利明先生のことを知ったということを話したことがあります。
私は、大本利明という方のことは全く存じ上げなかったのでした。
大本先生は大正七年愛媛の農家に生まれて、平成十一年三月三十日に八十歳でお亡くなりになっています。
知人からいただいた資料には、
「大本先生は、いつも「私は先生じゃない、愛媛の百姓です。先生というのは、本当に道を求め、教えを学び、それを先達として実行される人が先生です」と仰っていました」と書かれていて、興味を覚えました。
愛媛の農家に生まれた大本先生は、義務教育(小学校)を終えるとすぐ家業の手伝いをされていたそうなのです。
「十五、六歳の頃に中崎辰九郎という立派な先生に教えを受けました」と書かれていました。
いただいた資料には、
「中崎先生は、その著書「正気」に「日本の青少年を日本男子らしく作り上げるというより外に何にも目的をもたぬ」と書いています。
そして、その中の「男児の情」という項に「強いばかりが男ではない、元気のいいばかりが男でない。憤りを発するのみが男に非ず、笑うのみでも男でない。真の男は「なさけ」がある。なさけとは自己を忘れて先方の事を思う心境である。なさけとは,人の事を思いやるが如く、言をかざり姿やさしく顔うなずいて語る上手者の心を言うのでもない。」 この中崎先生のもとに近隣の青少年は通い教えを受け、その中に大本先生もいました。
大本先生は、中崎先生から「人に喜んでもらう生活」を学びました。」と書かれていました。
大本先生の言葉として、
「家内の言うことは、「ハイ」「ありがとう」ということにしている。
この二つの実践ができないようでは、自分の哲学も学問もだめだ。
倫理の実践とは、「ハイと言えること」「ありがとうと言えること」です」、
大事なのは、実践が確実に行われているかです。
というのがあって、これも森信三先生にも学ばれた先生らしい言葉だと思いました。
そんな大本先生が学ばれたというのが、中崎辰九郎先生というのですが、この方のことも全く存じ上げませんでした。
どういう方なのかと思っていた次の日に、とある知人から、
「管長に是非差し上げたい本がある」といって、一冊の本を頂戴しました。
なんとその本が『中崎辰九郎撰修4 虚心痛談』という書物でありました。
なんという不思議なご縁かなと一人感動したのでした。
「無上の宝聚 求めざるに自ら得たり
今法王の大宝、自然にして至れり」
という言葉が法華経にありますが、まさにその通りで、自然とすばらしい教えの宝が私のところにやって来てくれたのであります。
欣喜雀躍してページを開くと、
「何々式健康法、何々強健法と数々あり。
正気健康法は、精神を明朗壮快にして、大いに笑うにあり、意気旺盛にして大いに働くにあり、心情を純真にして物事を善意に解するにあり。
病魔、冑をぬいで逃げ去らん。」
「流るる水は腐らず、
廻って居る車はよごれぬ。人生は絶えざる変化である。停滞は退歩であり、堕落である。一瞬時も休まず、無限の進展の一路を進むのが真面目な人生である。」
の一言を拝見して肝に銘じました。
停滞は退歩、常に求めて前進し続けることあるのみと思ったのでありました。
横田南嶺