苦しみの原因は無知
日本の仏教とチベット仏教では、何が違うのかという質問を受けました。
日本の仏教といっても実に幅広いものですし、チベット仏教といってもこれまた実に幅広いので単純に、何がどう違うと論じることは難しいものです。
幅広い日本仏教のなかでも鎌倉時代の仏教というものを、日本仏教として取り上げるとするならば、単純化された仏教だということができます。
念仏ひとつでいい、題目を唱えればいい、坐禅ひとつでいいと、実に単純化されたのが、鎌倉仏教の大きな特徴でしょう。
もっとも法然上人をはじめ鎌倉仏教の祖師たちは、仏教を総合的に学ばれた末に、これひとつでいいと絞られたのでした。
チベット仏教は、もともとチベットにあったボン教と仏教教理とが結びついたラマ教という一面もあれば、中観という究めて精緻な思想体系も伝えていますし、仏教論理学の伝統も受け継がれています
私は学生の頃、中観派の仏教を学んでいましたので、チベット仏教のこの方面での造詣が深いことに感嘆したものでした。
また学生の頃に、『現観荘厳論』などの勉強もしていましたが、これなどは般若経典についての精密な論書であります。
こういう仏教は今の日本には伝わっていません。
私などが今臨済禅で行っている公案の体系などとは比べものにならないほど、精緻な体系が構築されているものです。
実践と共に理論的な面においても完璧といえるほどのものを作り上げていると思います。
チベット仏教と禅について考えると、サムエの宗論を思います。
岩波の『仏教辞典』には、「サムイェーの宗論」として記載されています。
引用しますと、
「〈チベットの宗論〉ともいう。
八世紀末のチベットで、中国仏教禅僧とインド仏教僧との間で行われたとされる宗教論争。
後代のチベット史書の伝説では、チベットの古刹サムイェー寺においてチベット王ティソン‐デツェンの御前で、仏果を得るための修行方法について<頓悟(とんご)>を主張する禅僧摩訶衍(まかえん)と<漸悟(ぜんご)>を主張するインドの学僧カマラシーラが論争し、最終的にはインド側が勝利して、以後チベットではインド仏教が正当とされたと伝えられる。」
と書かれいてます。
そこで「こののちチベット仏教は表面的にはインド仏教を忠実に継承するものとして形成されていくことになったが、ニンマ派などの一部の思想の中に禅宗の影響を読みとることができる」とも書かれています。
このときの学僧カマラシーラというのは、中観派の大学匠であります。
これも岩波の『仏教辞典』の記述には、
「<サムイェーの宗論>とも呼ばれる摩訶衍との論争では、禅宗は利他行を欠いて自らの悟りのみを求めるから大乗ではなく、三昧(さんまい)のみを求めて正見を欠き、般若(はんにゃ)の智を完成できないので仏教であり得ないと批判した。
結果として論争に勝ち、チベットにインド仏教の特に中観思想を正統説とする伝統を定着させた」
と書かれています。
指摘された点で利他行を欠くというのは、納得ゆきかねますが、三昧のみを求めて正見を欠くというのは鋭い指摘なのであります。
チベット仏教は三昧を修めることはもちろんのこと、正見を大切にして般若の智を完成させることを重視しています。
そのチベット仏教の頂点にいらっしゃるのがダライ・ラマ猊下であります。
それだけに本書は「仏教入門」とうたいながらもかなり専門性の高い書物であります。
五蘊についての解説も
「心身を構成する五つの集まり
「五つの集まり」とは、「色形」(色)、「感覚」(受)、「識別作用」(想)、「形成力」(行)、「意識」(識)の五つを指す。
「色形の集まり」(色蘊)は、より粗大なレヴェルでは、たとえば肉体、血液などを指し、より微細なレヴェルでは、無上ヨーガ・タントラに説かれるところの、生体をかけめぐっているさまざまな形の「風(ルン)」、すなわち、生体エネルギーを指す。
(中略)「感覚の集まり」(受蘊)と「表象作用の集まり」(想蘊)は知覚作用と表象作用という「心の作用」(心所)にあたる。
この両者は他の「心の作用」から独立して独自の集まりを形成している。
「識別作用」が他の「心の作用」とは独立した扱いをうけている理由として、ヴァスバンドゥ(世親) は「阿毘達磨倶舎論』において、この両者はあらゆる議論や執着の源であるから、と述べている。
執着とはあらゆる楽しい感情から離れたくないと望み、あらゆる痛みをともなう感情から逃げたいと思う感情である。
この執着は人を煩悩へと導き、それゆえに輪廻に結び付ける働きを有している。」
と説かれています。
ナーガールジュナ(龍樹)の『空についての七十の詩』からの引用がございます。
原因と条件によって生じたにすぎない事物を
真実に存在するものであると執着する意識は
仏陀によって無知と呼ばれている。
この無知から縁起の十二支が生じるのである。
この偈を用いてダライ・ラマ猊下は、
「このように人には、事物を縁起によって生じたものではなく、それ自身の力によって成立しているものと誤解・誤認する意識 生来の無知が備わっています」と説いています。
またこういうことも仰っています。
引用しますと、
「自らの「欲望」や「怒り」を吟味するとき、それらが自己を非常に固定したものとして考えることから生じていることに気がつきます。
その固定化によって、自他の間に強い線引きが行なわれ、ついには、一方に愛着を感じ、他方に怒りをおぼえるようになるのです。このように「欲望」と「怒り」は自分の「我」を過大視することを基礎にしています。」
と説かれています。
「事物を縁起によって生じたものではなく、それ自身の力によって成立しているものと」誤解する無知によって、欲望や怒りを生じているのです。
その欲望や怒りが苦しみを生み出すのであります。
どのように誤解してしまうかと言えば本書でダライ・ラマ猊下は、
「たとえば、実際には無常であるものが、あたかも常住であるかのように見えることがあります。
また、実際には苦しみの源となっているものが一見すると快楽の源と見えることもあります。
これが、事物の真実のあり方とその現われ方の間にある対立です。
究極の真実について言うならば、対象は実体として存在しているように見えるものの、実際にはそのような実体性はないのです。」
というのが真理なのであります。
この真理を知らない無知こそが苦しみを生み出す原因なのです。
ダライ・ラマ猊下は、
「対象が実体として存在していると思い込む無知は、欲望と怒りの両方を助長するものなのです。
ですからあらゆる困難な問題の原因は無知にある」と説いているのです。
私たちがチベット仏教から学ぶものは大きいものです。
横田南嶺