坐ることは立つこと
もうかれこれ二十二回になります。
奘堂さんは、先月久しぶりにイギリスの大英博物館に行かれて、フィディアスのディオニソス像に前で数日過ごして来たというのであります。
その感激の動画を拝見させていただきました。
そして、奘堂さんが十五歳の時に読んだという『ベートーヴェンの生涯』から、ロマン・ロランの言葉を引用されました。
「人間が常に生きている。
諸君がみずから意識しないときですら諸君は古代の諸彫刻作品の石の心臓に眠っている息を吸い込んでいるではないか。
フィディアスの感覚と理性と生命の火との調和を吸い込んでいるではないか。」
というのであります。
そこから、更に道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」にある話を紹介されました。
麻谷禅師にある僧が、
「風はいつでも吹いていて、ゆきわたらない処はないのに、和尚は、なぜさらに扇を使って風を起こすようなことをしているのですか?」
と問います。
麻谷禅師は、「あなたは、風はいつもあることを知っているが、どこにも行き渡らないところはないということを知っていない」
と言います。
僧が、「では、どこにも行き渡らないところはないというのは、どういう道理ですか」と問うと、
麻谷禅師は、ただ扇を使うのみであったというのであります。
これは、仏性は常にあり、誰一人仏性が欠けている人はいないのに、なぜさらに仏道修行する必要があるのですかという問いを含んでいるものです。
ただ扇を使うのみ、ただ坐るのみというところです。
更に奘堂さんは、西田幾多郎の、
「フィディヤスの鑿の尖(さき)から… 流れ出づるものは、過去の過去から彼の肉体の中に流れ来った生命の流れである。…そこには生命の大なる気息le grand souffle de la vieがある。(「美の本質」)という言葉や、
『新約聖書』から、
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。」(コリント人への手紙第一6章19節)
という言葉を紹介してくれました。
そこで、更に私が過去に管長日記で紹介した言葉を取り上げてくれました。
私が十歳の頃、故郷の和歌山県新宮市の清閑院で、はじめて坐禅会に参加したときの話です。
「目黒絶海老師という方のお姿を拝見して、これもまた言葉にならない感動を覚えました。老師のたたずまい、風貌、仏前に焼香し恭しく礼拝されるお姿に感動したのでした。そのお姿を拝見して、ここに真実の道があると、子供ながらに確信したのでした。…
今も印象に残っている言葉が二つございます。
一つは、その提唱を始める時に、目黒絶海老師は、手を合わせてみんなを見渡して、今日ここにお集まりの皆さんは、みな仏様ですと言って拝まれたのでした。
もう一つは、坐禅をすると、やおよろずの神々が身中に鎮座なさるのだという言葉でした。…
なんだか、坐禅というのは、とても神聖な素晴らしい行いなのだと感じたのでした。 …
白隠禅師は、「天神七代、地神五代、並びに八百萬の神、悉く皆身中に鎭坐ましませり。」
と仰せになっています。…
そして白隠禅師は、この神々をお祀りするには、禅定に入ることだとして、腰骨を立てて気を丹田に満たして、姿勢を正して坐って…、と説いています。」(管長侍者日記「やおよろずの神々」(令和3年3月31日))
という文章でした。
みな仏のいのちをいただいていながらも、ただそのことに気がつかずにいます。
そこで、人は足で大地を踏みしめて立ち上がるぞという気力が必要なのであります。
足の付け根で立つことを坐るというのが、奘堂さんの説明なのです。
坐るというのは、足の付け根で立つことだというのであります。
今回も何度も実習を行ってもらいました。
なかなかはじめて聞く修行僧には、かなり難しいことのように思えたようであります。
しかしながら、聞いていると、その心が伝わってくるものであります。
折から、知人からいただいた手紙で、大本利明先生のことを教わりました。
私は恥ずかしながら、この大本利明先生という方を存じ上げませんでした。
大本先生は、愛媛の農家に生まれ、農業をなさっていました。
十五、六歳の頃に、中崎辰九郎という先生に教えを受けたそうです。
結婚の後に上京して、これはと思う宗教家、哲学者、思想家、教育者の門を叩かれたというのであります。
中崎辰九郎先生のほかに、常岡一郎、西田天香、後藤静香、安岡正篤、西村忠義、森信三先生などに師事されたというのです。
その大本先生の言葉に感銘を受けました。
「心に神を祭祀(まつれ)ば、仰々しい神棚も特別になくてすむ。森羅万象を神の化身と感得すれば、空が神であり地が神である。」
「祝詞や経文や十字架をきらねば、神様に会えないと思っている人がいる。願いごとを捨てて、無心に拝めば神さまはすぐに会ってくださる」
という一言であります。
この言葉を読んで、大本先生のことを調べたくなって、その歌集を取り寄せて読んでみました。
神仏は 呼く息吸ふ息 そのなかに おはしますかな ありがたきなり
大ひなる いのちのひかりに 守られて おしえみちびかるる みめぐみおもふ
念ずとは 今の心に 生きること その時その場に まことつくさむ
素晴らしい和歌にめぐりあうことができました。
坐ることは立つこと、生きることは学ぶこと、良縁に感謝し、常に学び続けることだと改めて思ったのでした。
横田南嶺