やおよろずの神々
臨済宗妙心寺派の清閑院というお寺の夏の坐禅会でありました。
その頃、八月の一日から五日まで毎朝坐禅会がございました。
最後の五日に、由良興国寺から目黒絶海老師がお越し下さって、提唱し独参を受けられていました。
そこで、私は初めて『無門関』という書物に触れることになりました。
その『無門関』を読んだ時の感動は忘れられません。
禅の漢文の独特の響きに心打たれました。
詳しい意味は分からないのですが、心に響いたのでした。
それから、目黒絶海老師という方のお姿を拝見して、これもまた言葉にならない感動を覚えました。
老師のたたずまい、風貌、仏前に焼香し恭しく礼拝されるお姿に感動したのでした。
そのお姿を拝見して、ここに真実の道があると、子供ながらに確信したのでした。
当時拝聴した提唱の内容は、ほとんど覚えていません。
『無門関』の香厳上樹の公案であったことは覚えています。
今も印象に残っている言葉が二つございます。
一つは、その提唱を始める時に、目黒絶海老師は、手を合わせてみんなを見渡して、今日ここにお集まりの皆さんは、みな仏様ですと言って拝まれたのでした。
もう一つは、坐禅をすると、やおよろずの神々が身中に鎮座なさるのだという言葉でした。
「ここにお集まりの方はみんな仏様です」という言葉には驚いたものでした。
たしかに少しばかり坐禅をしたのですが、とても仏などというにはほど遠い状態です。
それなのになぜ仏だというのか、疑問に思いました。
疑問に思いながらも、こんなご立派な「老師」が仰せになるのですから、きっと深い意味があるのだろうと思ったのでした。
それから、もう一つ、坐禅するとやおよろずの神々が、身中に鎮座するとの言葉にも感銘を受けました。
なんだか、坐禅というのは、とても神聖な素晴らしい行いなのだと感じたのでした。
先日龍雲寺の細川晋輔老師と、須磨寺の小池陽人和上のお招きをいただいて、クラブハウスというものに出させていただきました。
テーマは、「禅と発酵」ということにして話をしたのでした。
これはちょうど栗生隆子さんと対談した後でしたので、そんな題を思いついたのでした。
『禅の思想』という鈴木大拙先生の本もありますが、禅というのは、始めに思想があるのではありません。
まず一人一人の禅僧の生き方があります。
しかも禅の場合は、統一された教義あるわけではないので、それぞれの禅僧が、独自の心境を言葉に表現し、行動に表したのでした。
そこから、思想を読みとってきたのであります。
しかも、ぞれぞれの禅僧には、強い個性があります。
十人十色どころではない、多様性がございます。
禅は、生活が基盤になっているのです。
私も三十年以上にわたって修行道場で暮らしていますが、毎年必ず行うようにし、大切にしていることが二つあります。
それは、沢庵を漬けることと、梅干しを漬けることであります。
毎年自分自身で沢庵を漬け、梅干しを漬けているのです。
なぜという深い考えもないのですが、何かこういう「暮らし」が大事だと思って続けています。
欠かしたことはありません。
深い意味も考えずに行ってきましたが、発酵生活研究家の栗生隆子さんにお目にかかって、この禅寺で漬けている漬け物や梅干しが素晴らしい発酵食品だと気がつかされました。
お味噌もそうであります。
禅の修行は、特別な修行というよりも、畑を耕し、味噌を仕込み、漬物を漬け、井戸水と薪でご飯を炊く、こういう暮らしを大事にしています。
平常といいますが、それはこういう普段のままの暮らしなのです。
これがそのまま仏道だというのです。
真言宗さまのように、護摩を焚いて加持祈祷ということはしませんが、ご飯を炊いたりお風呂を沸かしたり、畑を耕すことが仏道なのです。
こんなところにも禅の特色があります。
発酵というのは、その土地、その土地によって変わるように、禅の教えもまたその道場、その道場、その老師、それぞれによって異なってくるのです。
それが自然なのです。
発酵ということから、そんな話をしていました。
するとクラブハウスというのは、その時に聞いて下さっている方と対話ができるので、発酵を研究したり弘めたりしている方々と交流ができました。
それぞれに、人生において、体調を壊したり、身心ともに疲弊したりした極地で、発酵食品に出逢ったという方たちでした。
発酵を学んでいくと、菌というのもは、大自然のあらゆるものとつながりあって生きているという縁起の世界観に通じるものを得てゆくようであります。
禅や仏教の教理から学ぶわけではないのですが、華厳思想で説かれるような縁起の世界観を得ておられると感じました。
普段禅や瞑想に関心のある方が多いのですが、今回は異なる分野の方々も見えて、お互いの対話が、一層豊かに熟成したように感じました。
なかでも発行活動家の田中菜月さんや、腸活薬剤師の塩澤宝さんも加わってくださって話が盛り上がりました。
塩澤さんは、発酵食品を研究されていて、腸内には十兆もの腸内細菌があり、その重量は1.5キロにもなると教えてくださいました。
腸のなかに十兆もの腸内細菌が私たちを生かしてくれている様子は、まるで、やおよろずの神々が腸のなかにいらっしゃるようだと言われました。
それで、私も思わず「その通り、白隠禅師もそう仰っている」と申し上げました。
私たちは、つい自分の力や意志で生きているように思いがちですが、腸内細菌を始め数えきれない菌などに生かされているのです。
白隠禅師は、
「天神七代、地神五代、並びに八百萬の神、悉く皆身中に鎭坐ましませり。」
と仰せになっています。
そして白隠禅師は、この神々をお祀りするには、禅定に入ることだとして、腰骨を立てて気を丹田に満たして、姿勢を正して坐って、目に見るのも耳に聞こえるのも、そこに一点の妄想をまじえず、清らかになることだと説いています。
目に見えない様々な菌のつながりの中で、生かされているという実感は、縁起を理解し、体感することにもつながってきます。
発酵の話から、四十年以上前に初めて聴いた禅の話を思い起こし、感動しました。
(クラブハウスでのお話はご本人の許可を頂き、記載しております。)
横田南嶺