いのちあればこそ
三月二十八日の記事にも感銘を受けました。
「生きててよかった」というタイトルです。
海原先生の同級生の方のことが書かれていました。
その方は、大学病院での勤務と研究生活を終えて故郷に戻り、看護師の奥様と共に医師として活動したのでした。
海原先生も、その方のことを、
「誠実で真面目でしかもユーモアもあり周りから頼りにされていた」と書かれていますので、よい人であったことがよく分かります。
地域医療にも貢献されて叙勲もされたそうなのです。
そんな方が、妻と共に車で走っていて、高速道路のセンターラインをオーバーしてきた車と正面衝突して、大けがをしたというのです。
どうにか一命を取る止めたものの、重い障害を負うことになってしまったとのことでした。
海原先生も、
「こんなに地域に貢献してきた人がどうしてルール違反をした車にぶつけられ、不自由な目に遭わなければならないのか、怒りを感じる」と書かれています。
「大丈夫なの?たいへんだったよね」と海原先生がメールをすると、
「生きててよかったよ、普通はなかなかできない体験をしたからね」という答えが返ってきたというのでした。
「怒りもいら立ちもないその言葉が胸に刺さった」と海原先生は書かれています。
「なぜ怒りがないのだろう、自分ならとてもそうはいかない。
どのくらい怒るだろう」と考えたといいます。
そして海原先生は、知人のジャズピアニストの方の話を書かれています。
この方は、「昨年新型コロナウイルス感染拡大の続くニューヨークでアジア人をターゲットにしたヘイトクライムにより救急搬送され手術を受けるという被害に遭った」のだそうです。
なんと「腕や肩にピアニストとしての活動の将来に不安を感じるほどの重傷を負った」らしいのです。
その方と海原先生は話をされたのですが、怒りやいら立ちの言葉は全くなかったというのです。
そして語られた言葉が、「生きててよかったです」。
「どこにも無理がないこの言葉が同級生のひとことと重なった」という話です。
こんな記事を読んでいまして、私はふと坂村真民先生の詩を思い起こしました。
「生き方」という題の詩であります。
生き方
どんなに立派な信仰を持っていても
貧乏のどん底に落ちたり
難病になって苦しんだり
ガンで死ぬこともある
それはどうにもならぬことだ
信仰とは関係のないことだ
大切なのは
その人の生き方である
どう生きたかを
神仏に見てもらうことである
という詩で、『坂村真民全詩集 第五巻』にございます。
真民先生は、一言
「それはどうにもならぬことだ」
と仰せになっていますが、恐らくや真民先生も、こんなことを幾度も経験されてきたのでしょうし、まわりにもそのような目に遭った人がいらっしゃったのでしょう。
いつの世にも、どこでもあることであります。
なぜあの人があんな目に遭わなければならないのかということが。
逆に、あんな悪いことをしていながら、なぜ罰も当たらないのかということも。
しかし、「それはどうにもならぬこと」なのです。
それを受け入れて生きてゆくしかないのです。
大事なのは真民先生の仰せになっている通り、「生き方」です。
なぜこんな目に遭うのかと、いつまでも恨み辛みのみを抱えて生きていれば、それは恨みの生き方になります。
愚痴ばかりこぼしていると、愚痴の生き方になります。
「生きててよかった」と思えば、感謝の生き方になるのです。
生き方は、環境によって決まるのではなく、お互いの心ひとつで決まるものです。
このように生と死のギリギリの境界で、生きてきた人というのは、
「怒りや恨みはなく、ただ今この時生きているということの大切さに気づいているのだと思う」と海原先生は考察されています。
そして、「私たちは死を逃れられないはずなのに、生きていること、生かされていることの大事さをいつも忘れがちだ。
ほんのひとつ歯車が乱れたら生きていることは危ういはずなのに、すぐにそれを忘れてしまう。
今、生きていることを大事にしてそれに集中してみたいと思う。そうするとこころに浮かぶ雑念が消えるはずだ」
というのです。
海原先生の文章が深く心に染みわたります。
この「生きていることを大事にしてそれに集中する」こと、これこそが坐禅なのであります。
呼吸に集中するのは、ここのことなのです。
そのように集中していれば、過去のことを思い悩むことも、将来を不安に思うことも、さまざまな雑念は消えるのです。
「いのちあればこそ」という言葉を私は思います。
「いのちあればこそ」だと思えば、少々のことには耐えられるのであります。
このいのち あればこそとて 桜みる
最後の五文字を変えれば、なんにもで応用できます。
このいのち あればこそとて お茶を飲む
このいのち あればこそとて 昼寝する
このいのち あればこそとて 散歩する
このいのち あればこそとて 息をする
このいのち あればこそとて ただ坐る
横田南嶺