煩悩の根本
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」(スッタニパータ 728)
「およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執 (愛執)に縁って起こるのである。」(スッタニパータ 739)とございます。
無明とは真理に暗いことであります。
お互いは、この無明というなにもわからない状態から、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、体に触れるものに愛着を覚えて、これは自分のものだと執着するようになってしまいました。
もともとこれが自分だというものも、自分の物だというものなどなかったのです。
何にもないところから、両親のご縁でこの世に生まれてきて、目で見たり、耳で聞いたり、体に触れてあれこれ感じるのであります。
そうして自我が形成されていっただけなのです。
はじめから堅固な自我があったわけではないのです。
お互い命が尽きて焼いて灰になればどこにも自分のものなどありはしません。
ところが、この自我という意識が、様々な執着を起こしてしまうのであります。
三毒というのは煩悩の根本であります。貪瞋癡の三つであります。
ものを見たり触れたりして、気にいったものは欲しがります、これが貪りです。
気に入らないものには嫌だと思い、憎しみや怒りを覚えます。これが瞋恚であります。
それから何も知ろうとしない無知が、愚癡という愚かさであります。
この三つが根本であります。
それから四煩悩というのもございます。四根本煩悩とも申します。煩悩の根本となるものが四つあるというのです。
それは、我癡、我見、我慢、我愛の四つであります
最初に我癡であります。我癡は一切の煩悩が起るいちばんの根本であります。
我癡は愚かさであり、真理を知らないことですから、実は無明というのも同じなのです。
私たちが迷い苦しむ様子をお釈迦様は十二に分けて説かれました。
これを十二因縁と申します。これを学ぶと迷いを起こすしくみがよくわかるのであります。
十二というのはなかなか長いので覚えにくいのですが、奈良康明先生の『般若心経講義』のなかで次の六つにまとめられます。
無明(無知)愛(渇愛、根源的欲望)取(執着)有(迷いの存在)生(生まれ)老死(苦)の六つであります。
無知から渇愛が生じて、執着になり、迷いを作り出し、生存してやがて老いて死ぬというものです。
なにも分からない無知から、目に触れたもの、耳に触れたものに、欲望を起こして、それが更に執着になり、迷いの存在となって、生を営み、やがて老いて死ぬのです。一番肝心なのは、私たちが迷いや苦しみを引き起こすということなのです。
その一番の原因は、無明、無知であるということです。根本は無明なのです。
何を知らないのかというと無常であり、無我であるという真理を知らないのであります。
一切は無常であるのにいつも有り続けると思ってしまい、自分という孤立したものはないにも関わらず、自分という独立したものがあると思ってしまう、何か触れたものを自分のものにしたい、もっと増やしたいという思いによって苦しみを造り出すのです。
苦しみの原因は、無常であることを知らない、自分という孤立したものはないことを知らない、無知にあります。これが無明です。これを我癡といいます。
我とは何かというと、仏教では「常一主宰」であると説きます。
世の中は無常であって、いつまでも同じではないのに、常に変わらないと思うのが我です。
刹那滅といいますが、一分間に七十五回も生滅を繰り返しているのです。
我々の世の中はいつまでもその状態で存在し得るものはなにもない。無常なのです。
常一の一というのは、自分だけで存在するということです。
そのように、それだけで存在するものはない、これを無我といいます。
総てのものは相寄り相助け合い、相互に関わり合いながら存在しているのです。
主宰というのは思うままになるということです。
常にあり続け、しかも単独で成り立ち、思うままになると思っているのが我であります。
真理は、違います、無常であり、無我であり、思うがままにならないのです。
『法句経』に「62、「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。」という言葉があります。
自分だって自分の思うようにはならないのに、どうして子供や財産が自分のものと考えられるのかというのであります。
三つ目は我慢です。我慢は人に対して奢り高ぶることです。
一般に我慢というと、辛抱することと思われますが、『広辞苑』で調べても
一番には「自分をえらく思い、他を軽んずること。高慢」という意味があり、二番目に「我意を張り他に従わないこと。強情。」という意味があって、三番目に「耐え忍ぶこと。忍耐。」という意味が載っています。
慢というのは、自分を他人と比較して、心の高ぶることをいいます。
慢心というものは誰しもあるものです。
七慢というのがあります。
慢=自分より劣ったものに対して、自分の方がすぐれていると思う。
過慢=自分と対等のものに対して、潜在的に自分の方がいいと考えている。
自分よりすぐれたものに対して、あれくらいは大丈夫と思う。
慢過慢=自分よりすぐれたものに対して自分の方がすぐれていると思いこむ。
我慢=自分にこだわって、自分の方が相手よりすぐれていると思い上がる。
増上慢=まだ分かっていないことを、さも分かっているかのようにふるまう。
卑慢=自分よりはるかにすぐれた者に対して、たいしたことはないと思う。
邪慢=自分に全く徳がないのに、徳があると思いこむ。
の七つであります。
それぞれ思い当たるところがあるものです。
四つ目は我愛です。私共は無意識のうちに自分を愛しているものです。
盤珪禅師は「一切の迷ひは皆身のひいきゆへに、迷ひますわひの。身のひいきせぬに、迷ひは出来はしませぬわひの。」と仰っています。
一切の迷いはわが身のひいきより起こるというのです。
わが身をかわいがるから、気にいったものを欲しがり、気に入らないものを退けようとするのであります。
いかに善意のようにみえても、その善意の底にもどこかに我愛があるものです。
我癡、我見、我慢、我愛の四つが煩悩の根本です。
無知なること、無知なる故に我があると思いこみ、おごり高ぶり、我を愛して執着しているのであります。
ただ煩悩だ煩悩だといって、嫌うのではなく、まずこの煩悩の根本をしっかりと認めることであります。
横田南嶺