いのちとは
久しぶりにお寺に来ると、新緑の美しいことに感動していました。
もっとも鎌倉にいて、自分のいるお寺も新緑のただ中なのですが、なかなか普段ずっと居続けていると、感動も薄れるものであります。
都心にあって今も緑豊かな寺であります。
そんな緑あふれる木々をみながら、命がみなぎっている様子を感じていました。
そして、ふと、コロナ禍以前に、いのちについて講演したことを思い起こしていました。
講演というのはいろいろあって、先方からテーマをいただくこともあれば、こちらが自由にしゃべっていい場合もあります。
その時の講演は、先方からテーマをいただいたのでした。
しかもそのテーマが四つございました。
四つのテーマについて語るのでありました。
その与えられたテーマの第一は、「いのち」についてでした。
それから二番目に、「人さまに尽くす気持ち」、三番目は「和」について、そして四番目は「仏」とは何かということでした。
どれも奥深いものばかりです。
そして四つ脈略がないようにも感じて、はじめは苦労したことを思い出しました。
まずは、「いのち」についてです。
いのちとは何か、即答することは難しい問題です。
昔の禅僧ですと、いのちとは何ですかと聞くと、いきなり棒で打ったものです。
打たれて痛いっというと、それがいのちだと示しました。
一番手っ取り早いのですが、今のご時世でできることではありません。
少なくともこの場において、こうしてしゃべっている私と、この話を聞いてくださっている皆様はいのちがあるということは確かであります。
私どもの宗祖臨済禅師という方は、今聞いているのは何者かと問われました。
聞いているのは何かという問いです。
聞く対象を問うているのではありません。
聞いている主体を問題にしました。
耳が聞いているのかというと、耳で聞いているのであって、耳が聞くのではありません。
内臓が聞いているのかというとそうでもありません。
頭が聞いているのかというとそうでもありません。
いのちあればこそ、聞いていることは確かであります。
いのちは電池のようなものと言った少女がいました。
難病に冒されて余命幾ばくもない時に言った言葉です。
しかしながら、実際には電池のような特定の限定された物質があるわけではありません。
お互いのいのちとは、そもそもは両親の出逢いによって生まれ、食べ物、水、空気、衣類、靴など様々なものが関わりあって、ようやく保たれているものです。
これが「いのちです」といって取り出せるものではありません。
大陽の光、地球の重力、四季折々の大自然の営み、それらが見事に調和して保たれているのが、おたがいのいのちであります。
ですからいのちとはおおむね、個別の生命体を超えてそれらを成り立たせている関係性、あるいは大自然や大宇宙を総体として表すものだと言えます。
次にはひと様のために尽くす気持ちについてです。
鍵山秀三郎先生は、日本をよくする法として、「国民の一人一人がちょっとした思いやりや人を喜ばせようという気持ちを持つことです」と仰せになっています。
私どもが仏道の修行をするのに必ず願うべきことが四つあります。第一には、まず人様のために尽くそうという願いを持つことです。次には、その上で自らの煩悩を断ち、三番目に広く教えを学び、四番目に仏道を成就せんと誓い願うのであります。
この順番が大切であって、まず自分の煩悩を断って教えを学んで、それから人をすくうというのではないのです。
まず人さまのために尽くそうと願うのです。
いのちは、関係性においてのみ成り立つのですから、お互いのいのちを精一杯に生かしてゆこうと思えば、他の為に尽くすことであります。
「如何にささやかな事でもよい。 とにかく人間は他人のために尽すことによって、はじめて自他共に幸せとなる。これだけは確かです。」とは森信三先生の言葉であります。
三番目は「和」です。古来東洋では「和」の一字を貴んでいます。
和を以て貴しと為すとはよく知られた言葉です。
円覚寺においても、「和」の一字こそは、「天下第一の宝」であると代々の老師方が説かれています。
和ということを、一言で言えば多様性を認めることです。「みんなちがってみんないい」という言葉がありますが、違いを認めることでもあります。
調和ということと、統一することとを混同されることがありますが、そうではありません。
統一ということは、異なるものを排除して統一することになります。
相調和しても決して同一にすることではないのです。
日本料理に「和え物」があるように、これはそれぞれの食材の持ち味を生かしながら調和しているのです。
最後に「仏」についてです。
「神と仏」とよく言われるように同じもののように思われることが多いと思います。
しかしながら一神教で説かれる神と、仏教の仏と決定的に異なるのは、仏とは元来人であることなのです。
仏とは、真理に目覚めた人、気がついた人、よく生きた人、智慧のある人、尊敬に値する人、自分を調御出来る人、人を導くことの出来る人、というのが元来の意味です。
仏教が発達するにつれて、この「仏」を、人間を越えた超越的な存在としてとらえるようになってきました。
そこで禅においては、臨済禅師は、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」という激しい言葉を敢えて用いて、人間を遙かに超えた超越的な存在として仏を求めようとすることを否定されているのです。
むしろそのような絶対なるものを否定することによって、めいめい自らの人間としての尊厳に気づかせようとしているのであります。
また、臨済禅師は「仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外に求めてはならない。今ここでこの話を聞いている者がそれだ」と説かれています。
いのちがあればこそ、聞いているのであり、実にそのいのちこそが仏なのであります。
すなわち私自身が仏だと言われたのであります。
しかしながら、現実の私は、迷い悩み苦しみが尽きません。そこで坐禅する、静に坐るということが必要になってきます。
坐禅して本来の自己に目覚めるのです。
本来の自己にであう為に、体を正しく調え、呼吸を静かに調えて坐禅をするのです。
そのようにして本当の自分に目覚めた人を仏というのです。
いのちとは、お互いの関係性によってのみ成り立つもの、そこでいのちを生かすには、必ず人の為に尽くすことであります。
そして人のみならず、自然環境などまわりの為に尽くすことによってこそ、大自然の調和が保たれて、本来の自己が自覚されてお互いの人格も完成してゆきます。
そのように、いのち、人の為に尽くすということ、和、仏という四つの言葉はそれぞれつながりあっていることがわかって、話をすることができたのでした。
そんなことを思い起こしていました。
横田南嶺