大らかに生きる – 鯉のぼりに思う –
とは、高浜虚子の句であります。
本日五月五日は、ご存じ子どもの日であります。
子どもの日とは、『広辞苑』では、
「国民の祝日。5月5日。子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかる趣旨で制定。もと端午の節句。」とございます。
端午とは、これも『広辞苑』で調べると、
「端午・端五」
「(「端」は初めの意。もと中国で月の初めの午の日、のち「午」は「五」と音通などにより5月5日をいう)五節句の一つ。
5月5日の節句。
古来、邪気を払うため菖蒲や蓬を軒に挿し、粽や柏餅を食べる。
菖蒲と尚武の音通もあって、近世以降は男子の節句とされ、甲冑・武者人形などを飾り、庭前に幟旗(のぼりばた)や鯉幟を立てて男子の成長を祝う。
第二次大戦後は「こどもの日」として国民の祝日。あやめの節句。重五(ちょうご)。端陽」
と解説されています。
鯉のぼりの起源は、いろんな説があるようですが、古くは中国の鯉の滝登りがもとになっていると言われています。
鯉の滝登りは、いまでも「登竜門」という言葉で使われています。
「登竜門」は、『広辞苑』に
「[後漢書(党錮伝、李膺)](竜門は中国の黄河中流の急流で、ここを登った鯉は竜になるといわれたことから)困難ではあるが、そこを突破すれば立身出世ができる関門。」
ということです。
禅語に、「三級浪高うして魚竜と化し、痴人猶戽む、夜塘の水」というのがあります。
『碧巌録』の第七則の頌であります。
「三級浪高うして魚竜と化し、痴人猶戽む、夜塘の水」を『禅学大辞典』で調べると、
「修行者が師家のもとに参じその鉗鎚を受けると、鯉が竜門を透過すると竜と化してしまうように、おろかな人も悟りを得て禅門の竜象となるという意。俗に毎年三月三日に鯉がその滝を遡って竜門を透過すると、角を生やして竜になるという故事」
とございます。
三級の浪というのは、「禹門三級の浪」とも申します。
『禅学大辞典』には、「禹門は竜門県(山西省)竜門山の門。夏の禹王がそこの爆布を三段に切り落して水を排除し黄河の氾濫を防いだという。
俗説に毎年三月三日に鯉がそこを遡って禹門を透過すれば角を生じて竜となると伝える。」
「すなわち、痴人は鯉が竜と化し去ったのも知らないで、禹門の滝壷を夜中、塘(つつみ)に立って鯉を捜索したということから、学人が師家の拈提した公案の落処(本意)を知らないで、徒らにそれを知解分別する方角違いをやることをいう。」
と書かれています。
更に入矢義高先生監修の『禅語辞典』には、
「竜門の三段の堰の高なみを上って魚はすでに竜となったのに、愚かものが魚を捕えようと、なお夜の淵の水をかい出している。言葉づらにとらわれて、勘所を押さえきれない愚かさを喩える」と書かれています。
また「夜塘水」を『禅学大辞典』で調べると、
「暗夜における何もいなくなった沢水で、後人の愚かな空しい言句上の探索にたとえる・竜門三級の浪は高いが、そこを魚が登ると竜になってしまう。しかし痴人は魚が登って竜となって行ってしまったあとの何もいない塘水、すなわち沢の水を、夜汲んで、魚を得ようとする愚行を言う。」
と書いています。
昔、夏という王朝の禹という王が黄河の氾濫をとめようとして、上流に山を切り開き三段の滝を作られたという故事があるのです。
これが龍門の滝や、禹門の滝なのです。
三月の桃の節句になると、この三級の滝壺に鯉が集まり、この滝を登って天に登ると龍になってしまうというのです。
そこから立身出世をすることを登龍門というようになったのです。
それがどういう訳なのかわかりませんが、三月の三日だったのが、日本では五月の端午の節句に鯉のぼりをたてて、男の子が鯉のように龍になって天に登るようにと祝うようになったのでした。
ちまきを食べるのは、屈原の話がもとになっているようです。
屈原は、『広辞苑』には、
「中国、戦国時代の楚の人。名は平、字は原。官にちなみ三閭大夫(さんりょたいふ)とも呼ぶ。楚の王族に生まれ、王の側近として活躍したが妬まれて失脚、湘江のほとりをさまよい、ついに汨羅に投身したという」人であります。
讒言によって左遷されたことを嘆き悲しみ、滄浪という河のほとりで漁師に「あなたは三閭大夫の屈原さまではありませんか、なぜそんなにやせ衰えておられるのか」と尋ねられて、「世を挙げて皆濁りて、我独り清めり。衆人皆酔ひて、我独り醒めたり。是を以て放たる」と嘆いたのでした。
意訳すると、
「世の人がみな濁っているのに、私だけが独り澄んでいる。みんなは酔って道理がわからなくなっているのに、私だけが独り醒めている。こういうわけで私は追放されたのだ。」
ということです。
そこで、「むしろ湘水の流れに身を投げて魚に食べられることはあっても、潔白なこの身を世俗のチリにまみれさすことはできない」
といって身を投げたのでした。
その死を惜しんだ人々が、屈原が魚の餌食とならないように、米を笹に包んで魚のエサとして川に投げ込んだそうです。
それがちまきの由来という説があるのです。
龍門の滝の話は、『碧巌録』にもあるように、公案といういくつも関門を通りぬけて、立派な仏になるという教えになっているのでしょう。
禅では、もともと唐の時代において、人は本来仏であり、何の造作もなく、そのまま仏なのだと説いていました。
それが、宋の時代になって、公案を用いて修行してはじめて仏になるという教えになってゆきました。
そのままで安閑としていてはいけないと戒めたのでありました。
そのようにして公案が必要になった事情はよく理解できますものの、容易に登れない滝を登らないといけないという説には、いかがなものかとも思います。
鯉のままで、池で泳いでいても立派な仏ではないかと私は思うのであります。
潔癖を守って身を投げた生涯は尊いものだと敬意を表しますし、その死を悼んでちまきを川に投げた気持ちも理解できます。
しかし、私は漁父が「蹌踉の水清まば、以て我が纓を濯ふべく、蹌踉の水濁らば、以て吾が足を濯ふべし。」と歌いながら、櫂の音も高らかに去って行く姿にも魅力を感じます。
「滄浪の水が清んだら、冠のひもを洗えばよい。滄浪の水が濁ったら、汚れた足を洗えばよい」というのです。
汚れたなら、汚れたなりに生きればいいということでしょう。
『従容録』の第十二則の頌には、
「機を忘じ帰り去って魚鳥に同じうす。足を洗う滄浪煙水の秋。」という句がございます。
大雄山の余語翠厳老師は、『従容録 上巻』(地湧社)のなかで、
「自己の才覚によっていろんなことをする働きを忘れ、天地の中に生きて在るお互いのことをよく分かれば、魚鳥と同じように自己の才覚など忘れてしまう」と説かれています。
「どうにでも融通無碍に生きていくことができるのにも拘わらず、何かにとらわれて動きがとれないわけです。
固い信念というものは誉められることですが、全きものはないのだから、ざあーっと生きていきなされ。
これ一つだけが本当だなんてものはありゃせん。」と説いてくださっています。
そんなおおらかな心をもって生きて欲しいものだと子ども日に鯉のぼりを見て願うのであります。
横田南嶺