忙しくしたら負け
おもしろい人というと、興味があります。
先日お目にかかることができました。
Nestoという会社を作った藤代健介さんであります。
これがどういうことをしている会社なのかというと説明が難しいのであります。
オンラインで、今のところ三十一種類の習慣が開かれています。
瞑想やランニング、体操、ヨガ、ピラティスなどなどであります。
そうかといって講座を受けるというわけでもなく、「その場に集った人がそれぞれ自分なりの時間を過ごすことを大切にしています。」というものなのです。
もちろんのこと、それぞれにホストという役の方がいるのですが、それぞれが思い思いの時間を過ごすのだそうです。
「いつも、笑顔なあの人。
いつも、穏やかなあの人。
Nestoでは様々な領域で活躍しているホストが「自分がごきげんでいるための習慣」を開いています。
30種類以上の習慣から、組み合わせも自由です。」
という趣旨なのであります。
藤代さんは、ヴィパッサナー瞑想も熱心になさっている方であります。
はじめてお目にかかって、その風貌、たたずまいから、一日一日丁寧に生きている方だなと感じました。
二時間ばかりいろいろ話をして、終わりに、私が、お忙しい中をお越しくださって有難うございますと申し上げると、
「いえ、忙しくしたら負けだと思っています」と言われました。
この言葉に感動しました。
そして藤代さんは、スペースを大事にしているということも仰っていました。
Nestoのホームページには、ミヒャエル・エンデの『モモ』という物語をとりあげています。
「「時間貯蓄銀行」の外交員を名乗る灰色の男たちによって、
時間の倹約が促された結果、町の人たちが効率にとらわれて大切なことを見失ってしまうというお話です。
エンデは決して働くことを否定しているわけではありません。
無駄なことを一切やめて、歯車の一部になることに警鐘を鳴らしています。」
と書かれています。
時間の節約ばかりしようとして、自分の時間がどんどん無くなり、ふきげんで、くたびれて怒りっぽくなってしまってゆくというのです。
スペースというのは、空間であります。
空間は無駄のように思ってしまい、そこに何かを埋め込もうとばかり考えてしまうと、大事なものを失うのであります。
このスペースというのは、仏教でいえば「空」なのであります。
スペースがあるからいい、「空」があるからいいのです。
この感覚をどう伝えたらいいか、考えてみました。
一番わかりやすいのは、鼻であります。あの鼻の穴、息を吸ったり吐いたりする鼻の穴です。
これはつまっていたら困るのです。
スペースがあるから、「空」だからこそ息ができます。
それからパソコンで文字を書いていても、空間があるから読めるのであります。
これが行間もなくびっしり書くと読めなくなるものです。
スペースや「空」は、空っぽでありますが、大きな意味があり、はたらきがあるのです。
時間も同じく、スペースがしっかりあるからこそ、生きてゆけるのであります。
この藤代さんのNestoというのは、このスペースを共有する場なのかなと思いました。
藤代さんのような方はきっとお忙しいのだと察しますが、きちんとスペースを大事に暮らしているのでしょう。
そこで「忙しくしたら負け」という言葉になったのだと思いました。
心にもスペースを大事にしたいものであります。
考えすぎは、頭にものを詰め込み過ぎるようなものです。
時には、考えを放ち忘れることも必要であります。
藤代さんは、毎日の瞑想の時間を大切にし、週に一度断食もなさっているとか、こういうところにスペースを大事にしている生き方が感じられます。
ひとつ、頭の中にスペースをつくる話を紹介しましょう。
昨日紹介した『従容録』の第十二則です。
地蔵桂琛和尚と脩山主という方の話であります。
桂琛和尚は、羅漢桂琛とも呼ばれる方であります。
曽て文益禅師と脩山主と進山主の三人がこの地蔵院の桂琛和尚を訪ねました。
そのときの問答も興味深いのですが、ここでは省略します。
三人の中で文益禅師は、この桂琛和尚をただならぬ禅僧と思って、そのまま留まって修行したのですが、二人は桂琛和尚をなにか物足らないと思ってか、行脚の旅に出たのでした。
そうして脩山主が行脚して再び桂琛和尚を訪ねたのです。
どこに行ってきたかと問う桂琛和尚に、南方に行ってきたと答えます。
南方というの当時禅の栄えた地方のことです。
南方の仏法はどんな様子だったかと問うと、脩山主は、禅問答が盛んに行われていましたと答えます。
おそらく桂琛和尚は、田んぼや畑を耕しているいなかの和尚のように思われていたのだと察します。
あなたのように、田畑を耕しているだけではなく、南方では禅について盛んに問答がなされていましたよと言いたかったのでしょう。
すると桂琛和尚は、
そんなことなら、ワシが田んぼを耕して、握り飯を食べている方がよっぽどましだと言いました。
その通りの暮らしをしていたのだと思います。
汗を流して田を耕して、おにぎりを食べる、それだけですが、それが素晴らしいのです。
そのことにまだ気がつかない脩山主は、それではこの苦しみに満ちた世の中をどうするのですかと問います。
あなたご自身はそうして、田んぼを耕して握り飯を食べて満足でしょうが、この世界をどうするのですかと言うのです。
それに対して桂琛和尚は一言、
「あなたは何を世界だと言っているのか」と言ったのでした。
こうして毎日田を耕して握り飯を食らう、ここに世界があるのです。
いろいろと世の中の不安なことが伝えられますが、時にはゆったりとこうしてここに自分がいると感じてみることは、心の中にスペースを作ってくれます。
また毎日の呼吸瞑想もほんの一分ですが、心にスペースを作ってくれるものです。
横田南嶺