青葉若葉の日の光
という松尾芭蕉の句を思う季節になりました。
芭蕉が日光を訪れた時の句であります。
本日は五月四日、みどりの日であります。
みどりの日というのは何か、『広辞苑』で調べてみると、
「国民の祝日。5月4日。
自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ日。
1989年、4月29日の昭和天皇の天皇誕生日を改称、
2007年、同日を昭和の日とするに際し5月4日に変更。」
というのであります。
二〇〇七年から五月四日がみどりの日になったのですから、もうかれこれ十五年も経つのであります。
みどりというと、いくつか思い浮かぶ字があります。
新緑の緑、紺碧の碧、翠と読む翠であります。
『漢字源』で「緑」を調べると
❶{名詞・形容詞}みどり。青竹や草の色で、青と黄との中間色。また、みずみずしくて深い感じの色。みどり色の。
❷姓の一つ。
会意兼形声。彔ロクは、竹や木の皮をはいで、皮が点点と散るさま。
剝ハク(皮をはぐ)・菉リョク(皮がはげて、きれいなみどりの肌の出た竹)の原字で、
綠は「糸+(音符)彔」で、皮をはいだ青竹のようなみどり色に染めた糸を示す。
ということです。
「翠」は、ひすいのような青緑色。「碧」は、無色の奥から浮きだす青緑色。
という説明もありました。
「翠」は
❶{名詞}鳥の名。カワセミ科の水鳥。背は光沢のある青緑色。くちばしは長く、尾は短かい。水辺に住む。カワセミ。ショウビン。
❷{名詞}カワセミの、よごれのないみどりの羽。
❸{名詞・形容詞}みどり。翡翠ヒスイのような青緑色。
山・草・葉など、よごれない青みどりのもの。青みどりの。
❹姓の一つ。
会意兼形声。「羽+(音符)卒シュツ(小さい。余計な成分を去って小さくしめる)」。からだの小さくしまった小鳥のこと。また、よごれを去った純粋な色。
という説明があります。
更に、「碧」は
❶{名詞}あおくすんで見える石。
❷ヘキなり{形容詞・名詞}あおい(あをシ)。みどり。あお(あを)。色があおい。あおみどり。無色の奥から浮き出すあおみどり色。
❸姓の一つ。
会意兼形声。「玉+石+(音符)白(ほのじろい)」。
石英のようなほの白さが奥にひそむあお色。サファイア色。
という解説がありました。
緑は青竹や草の色から、翠はカワセミから、碧は石からきているとわかりました。
みどりにしても、いろんなみどりがあるのだとわかります。
東光禅寺の小澤大吾和尚から、先日時報を頂戴しました。
いつもいただくたびに、とても充実した内容に深く感銘を受けます。
今回も巻頭に書かれた小澤和尚の言葉には感動しました。
先日五月三日の功徳林ライブ配信で紹介させてもらいました。
また、その中に、リー・クロケットさんが興味深いことを書かれていました。
日本語の奥深さについて書かれていました。
小澤和尚もリー・クロケットさんも、毎月二回行っている修行道場の布薩に参加してくださっているのであります。
布薩は、百回の礼拝を繰り返して、戒を読み上げて自分自身を省みるのであります。
早朝行っていますが、それにわざわざお越しくださるのですから、その熱心なる求道の心には頭が下がります。
さてクロケットさんが、自分のお気に入りの言葉に「心」があると言います。
「心」はたった四画にすぎないのですが、英語で「心」をシンプルに表わすものは存在しないというのです。
「ハート」「マインド」「スピリット」それぞれに異なる概念になるのだそうです。
また聞くという漢字にも注目されています。
「耳」と「門」の組み合わせに、「ワクワク」するのだそうです。
クロケットさんは、「「耳という器官を通じて音の波動を受け取る」という単なる身体作用に留まらず、素晴らしい出会いや新たな体験に満ちた、「門」を入った中に広がる大いなる世界へと私たちを誘うものなのだ」と書かれています。
たしかに辞書で調べてみると、「聞く」は「門」と「耳」ですから、「門は、とじて中を隠すもんを描いた象形文字。中がよくわからない意を含む。聞は「耳+門」で、よくわからないこと、へだたったことが、耳にはいること。」をいうのだそうです。
また「聴力」の「聴」は、注意深く耳を傾ける場合に使うのです。
そして更にクロケットさんは、この「聞く」という意味と使い方が、単なるHearに留まらずに実に多様であると指摘されています。
「話の内容や音楽などを注意深く聞く」「香りをかぐ」「味わう」「指示や助言に従う」などです。
さらに「聞く」には「尋ねる」という意味も含むことに驚かれています。
一見対照的なこの二つのことが一体となっているというのです。
クロケットさんは、「何かを「尋ねる」 からには、香りを感じ取り舌で味わうかの如く、人の回答を心から受け取ろうと努める姿勢が大切であり、逆に誰かに何かを尋ねられたり助言を求められたりしたら、己自身の問いとして受け止め、「聞く」人の心に全身全霊で向き合うべきなのだ。」
と書かれています。
そして更に「「己 (主体) と他者(客体)の区別などない」と禅の先達は言う。
隣人の喜びや悲しみは己のものであり皆のものである、肉体は別であっても本当の意味で孤独な者など一人もいないのだ、と。
日本語にはそんな禅の本質が、 元来組み込まれている気がしてならない。」
と書かれているのです。
クロケットさんの洞察には恐れ入りました。
円覚寺に坐禅に通い、尺八も長年なさっているので、これほどまでに深く物事をご覧になるのだと感じ入りました。
私などあまり意識せずに使っている日本語ですが、そんな深い意味があるのだと改めて学ぶことができました。
新緑を愛でながら、大自然の声にも耳を傾けたいものであります。
横田南嶺