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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.04.28
今日の言葉

柳と観音さま

毎日新聞に、「毎日ことば」という欄があります。

その288回、四月二十四日には、「柳絮」という言葉が載っていました。

この言葉の読み方と意味については、その日の毎日新聞の紙面の中に書かれているのです。

何ページにあるのかは書かれていません。紙面をめくりながら探すのであります。
答えは、読み方は「りゅうじょ」です。

意味は、「春風に舞う綿毛」です。

解説に、

「柳の種子を含む綿毛。2月に亡くなった俳人、稲畑汀子(いなはたていこ)さんの句は「とらへたる柳絮を風に戻しけり」。

歌手の中島みゆきさんは「EAST ASIA」で、柳絮に仮託して「力だけで心まで縛れはしない」と歌います。」

と書かれています。

「柳絮」というと、『趙州録』にある言葉を思い起こします。

筑摩書房・禅の語録11『趙州録』に

問う、「学人南方に向きて些子の佛法を学び去らんと擬す、如何?」

師云く、「你南方に去きて、有佛の処を見ば、急に走り過ぎよ。無佛の処、住することを得ざれ」。

云く、「與麼ならば即ち学人依るもの無し」。

師云く、「柳絮、柳絮」という問答であります。

小川隆先生からご教示いただいた現代語訳を参照します。

問う、「それがしは〝南方〟へ行っていささか〝仏法〟というやつを学ぼうと存じますが、如何でしょうか?」 

趙州、「〝南方〟へ行ったら、有佛のところは急いで通り過ぎよ。無佛のところには留まってはならぬ」。

「それでは、それがしには何も拠りどころが無くなってしまいます」。

趙州「柳絮♪ 柳絮♪」
(そう、有佛にも無佛にもとどまらず、いかなる拠りどころもない、それでこそよいのだ、ほれ、ヤナギの綿のようにふわふわと)

というものです。

柳絮という言葉は「摘楊花」という言葉と同じ意味で使われています。

「楊花」はヤナギの綿のことで、柳絮と同義なのです。

趙州録には、「摘楊花」の用例もあります。

小川先生の訳文だけを紹介しますと、

趙州が新到に問うた、「どこからまいった?」「はい〝南方〟です」。趙州「はるか彼方のところで人に出逢うたら、けっして(〝仏法〟などという)戯言を申してはならぬ!」「さようなことをしたことはございませぬ」。「摘楊花♪ 摘楊花♪」(そうそう、ほれ、ヤナギの綿のようにふわふわと。そうでなければならんのだ)

「摘楊花」は、入矢義高先生の『禅語辞典』には、

「空中を舞い飛ぶ柳紫を取ろうと追いかける。もとは子供の遊びで、こう囃したてながら柳紫を追って走り廻った。それを図柄にした明代の染付がある」

と解説されています。

要は「風に吹かれてふわふわと飛ぶヤナギの綿を楽しむ歌ないし囃しコトバということですから、何処にも根を下ろさず、何者にも依拠しない、いわば無基底のありようを軽やかに明るく歌ったもの」なのだと、小川先生に教わったことがあります。

柳というと、いろんなことわざにも使われています。

「柳に風」、「柳に雪折れなし」、「柳の下にいつも泥鰌はいない」などであります。

また柳というと観音さまにも縁が深いものであります。

楊柳観音という観音さまがございます。

岩波書店の『仏教辞典』には、

「楊柳観音」として、

「三十三観音の一つ。

薬王(やくおう)観音と同体といい、種々な姿で古来、仏画に描かれてきたが、右手に楊柳の枝をもち、左手に施無畏印(せむいいん)を結ぶ像、または座右の花瓶に楊柳枝をさして水辺の岩の上に坐る像が流布する。

楊柳枝は衆生の願望にしなやかにそうこと、衆病を除こうとする誓いを表し、除病の利益(りやく)があるものとして、唐以降、中国や日本で信仰された。」

と書かれています。

柳には、魔除けや鬼門封じに使われることがあり、邪気を払うとも言われていて、日本でも、昔から鎮痛作用があり、歯痛に効果があると考えられて、つまようじとして使われていたことがあります。

無学祖元禅師は、観音さまを深く信仰されていたと言われます。

日本の禅寺で観音経を読むようになったのは、元寇の折に、当時建長寺にいらっしゃった無学祖元禅師が、日中に観音経を読むようにしたことからだと伝えられています。

無学祖元禅師の語録『仏光国師語録』には観音さまを詠った漢詩がたくさんございます。

その中のひとつをご紹介します。

佛光録巻八の観音讃です。

原文は

楊枝拂拂として東風に舞う。
大士の深慈、笑容を展ぶ。
一目更に心外の物無し。
衆生の業海、幾時か空ぜん。

楊枝は柳の枝です。

「払払」は風がそよそよと吹き、それに吹かれて物が揺れているさまをいいます。

緑鮮やかな柳の枝が、温かな春風にそよそよと吹かれ静かに揺れていることを詠っています。

大士は観音大士、観音菩薩を言います。

その緑鮮やかな柳の枝がそよそよと春風に揺れている風光は、観音さまその慈悲ぶかい笑顔を顕しているのだということです。

こうして見わたすかぎりのすべての風光は、すべて一心の外にあるようなものはないということです。

みな観音さまの慈悲の心の顕れであり、それはそのまま無学祖元禅師の心にほかなりません。

最後の一句は反語であります。

衆生の悩み苦しむ業の渦巻く海は、一体いつになったらなくなるのであろうか、なくなりはしないということです。

悩み苦しみがなくならないので、観音の慈悲の心も渇くことはないということです。

それと同じように無学祖元禅師の慈悲の心もまた尽きることがないことを詠っています。

柳の枝が春風にゆれるさまを観音さまのお姿に喩えながら、観音さまの無限の慈悲を讃えています。

それでいて、観音さまの慈悲に托して無学祖元禅師の自らの慈悲の心も尽きぬという決意を述べている漢詩であります。

また無学祖元禅師には、

「独坐す枯木巌。一嘯すれば風悄々。衆生界未だ空ぜず。我が心終に飽かず。」

の偈があります。

これは、朝比奈宗源老師が好んで揮毫されました。

虎があらゆる生き物を食べ尽くさない限り、満腹しないという事にたとえて、衆生の悩み苦しみが尽きない限りは我が願いもまた尽きる事がないという詩であります。

柳の枝に観音さまのお姿と慈悲のこころを思うのであります。

 
横田南嶺

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