極端から離れたものを正しいと感じなさい
どうせ自分なんてこんなものだと、固定的に思う込んでしまっている場合には、この空であると見る見方はとても重要であり、大きな力にもなります。
私も世界も変わることができるのです。
しかし、すべては空であることに偏ってしまうこともまた問題であります。
大学では、すべてはバーチャルリアリティだから、いつでもリセットできると話をしましたが、すべてはバーチャルなら、何をしてもかまわないということにもなりかねないのです。
空に偏ってしまうことも大きな問題をはらんでいます。
もちろんのこと、あまりにも現実の世界だけをすべてであると思いこむのも閉塞感を拭うことは出来がたいのであります。
この空を説きながらも、空にとらわれないということもきちんと説いておかないといけないと考えていました。
おりから本山の寺務所で、比叡山から届いた『比叡山時報』(四月八日)を拝読していて、一心三観ということが説かれていて、なるほどと思ったのでした。
『比叡山時報』(四月八日)から塩入法道先生の文章を引用させてもらいます。
「天台には有名な「一心三観」という教えがある。
ものごとの見方には空観と仮観と中観の三つがあるとする。
つまり一切は実体がない「空」であるが、縁起により「仮」に成り立っている現実にも意義を認めつつ、どちらにも偏ることのない高次元の見方を「中」とし、このことを分析的にではなく、一瞬に思いの中に取りおさめて悟ることが一心三観であると一応は説明できるが、なかなか理解しにくいだろう。」
というのであります。
空でありながらも、仮にこの現実の世の中が成り立っています。
空を学びつつも、この現実の世界の意義も認めてゆかねばなりません。
空にも偏らず、現実にも埋没せずに、その中を大切にするというのです。
こういうのが、「一心三観」というのであります。
「一心三観」を岩波書店の『仏教辞典』には、
「執われの心を破し(空観)、すべての現象が仮のものながら存在することを悟り(仮観)、絶待(ぜつだい)的世界に体達する(中観)ことを一思いの心のうちにおさめとって観ずることをいう。」
と書かれています。
こういうことをどう伝えたらよいのか、なかなか難しいのです。
そんなことを考えていると、四月二十四日の毎日新聞に、小池陽人さんがよいことを書かれていました。
小池さんには、いつもお世話になっています。
「僧侶・陽人のユーチューバー巡礼」という企画であります。
今回は、フォトジャーナリストで認定NPO法人「Dialogue for People(ダイアローグ・フォー・ピープル、D4P)」副代表理事の安田菜津紀さんとの対談記事であります。
安田さんが、中東でイラクから難民として逃れてきたというキリスト教徒の方から、「日本は仏教徒が多い。仏教は人間の力を信じる宗教だと思う。とても素晴らしい」と言われたそうのです。
そのことについてどう思うか聞かれた小池さんは、
「多くの宗教では絶対者、神がいます。
私たちとの間に預言者がいて、その言葉が聖書やコーランとして伝えられています。
しかしお釈迦様は絶対者を認めなかった。
すると、他の宗教では神が示してくれる善悪の判断軸、価値基準がない。
では仏教の捉える正しさとは何かというと、極端から離れたものを正しいと感じなさいという教えなんです。」
と説かれていました。
更に小池さんは、
「「これが正しい」「間違っている」と思った瞬間、それは偏りです。
偏らないところに答えがある。」
と示してくれていました。
この一言に深く感銘を受けました。
「中」とか「中道」という仏教の言葉を用いても、なかなか伝わりにくいものです。
そこを誰にでもわかりやすく、
「極端から離れたものを正しいと感じなさい」
という言葉で示されたのは素晴らしいものです。
さすが普段から、あまり仏教語、専門用語に頼らずに仏教を伝えようとなさる小池さんならではお言葉だと思いました。
「一心三観」とか「中道」といっても通じにくいところを、明晰でわかりやすい言葉で示してくれたのでした。
これは、簡単ではなく、小池さんも紙面で、「ものすごく不安定です。自問自答しながら自分の信じる道を見つけるという道のり。これが「人間の力を信じている」ということだと思います。裏を返せば、人間は偏りやすく愚かだということも深掘りしている。だからこそお互いを認め合う教えでもあります。」
と語っておられる通りなのです。
不安定な中を、揺らぎながらも求め続けてゆくものだと私も思っているのであります。
安住安泰は間違いを起こしやすいのであります。
円覚寺の開山仏光国師は、まだ中国にいらっしゃった時に、元の軍に攻められていのちの危機に陥ったことがありました。
仏光国師は温州の能仁寺に難を避けていましたが、元軍はついに能仁寺にも押し寄せたのでした。
元の兵士が刀を抜いて禅師の首に突きつけました。
その時に泰然として
乾坤、孤笻を卓つるに地無し。
喜得す、人空法亦空なるを。
珍重す、大元三尺の剣、
電光影裏、春風を斬る。
という詩を読んだのでした。
意訳しますと
「この広い天地のどこにも杖一本を立てられそうな余地もない。
しかしうれしいことには、人ばかりか法もまた空なのだ。
ありがたく大元三尺の剣を受けよう。
たとえこの私を斬ったところで、いなびかりがキラッと光る間に、春風を斬るようなものだ。」
というところです。
これは、四世紀から五世紀にかけて活躍された肇法師の偈がもとになっています。
肇法師は、鳩摩羅什に師事した方でした。
羅什を師とし、仏法ひとすじ、心身をささげていましたが、たまたま、ある時、秦王の怒りにふれ、処刑されることになってしまいました。
肇法師は七日間の猶予を乞い、許されて、その間、「宝蔵論」という書物を書き上げました。
かくして肇法師は斬刑の場に臨み、次のような遺偈を残したのでした。
四大元主無し、五蘊本来空 頭をもって白刃に臨めば、猶春風を斬るに似たり。
というのです。
四大という地・水・火・風の元素で成り立つ人間の肉体にはもとより主は無い。
したがって五蘊という五つの構成要素も本来空である。
まさに首を差しのべて白刃に臨めば、さながら春風を斬るようなものだというのです。
絶体絶命の時に、一切は空であると見るのは大いなる安らぎになります。
そうかといって、空だから、何をしてもいいのではありません。
お互いの体は傷つけないように大事にしなければなりません。
空を学びながらも、空にも偏らずに生きることが大切なのであります。
「極端から離れたものを正しいと感じる」ことを大事にしたいものです。
そして、このように明確に仏教の言葉を伝える努力を怠ってはならないと思います。
横田南嶺