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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.04.23
今日の言葉

不思議

不思議なことがあると言います。

「それは不思議ですね」と、日常でもよく使う言葉であります。

不思議とはそもそもどういうことなのか、いつものように『広辞苑』で調べてみると、

ます「不可思議の略」と書かれています。

それから、

「①よく考えても原因・理由がわからない、また、解釈がつかないこと。いぶかしいこと。あやしいこと。奇怪。」

という説明があります。

更に

②(「不思議を立つ」「不思議を打つ」の形で)あやしく思う。不審の念を持つ。」という解説があるのです。

どうも、これらの解説から、「不思議」はあまり良い意味では使われないように感じます。

では、もともとの「不可思議」はどうなのかというと、

「①思いはかることもできず、言語でも表現できないこと。考えても奥底を知り得ないこと。」

「②怪しいこと。異様なこと。ふしぎ。」

「③数の単位。10の64乗。一説に、10の80乗。」

というのであります。

あやしいという意味は、二番目であって、一番には、

「思いはかることもできず、言語でも表現できないこと。考えても奥底を知り得ないこと」という説明があるのです。

特に「考えても奥底を知り得ないこと」というと、何か深い意味があるように感じます。

そこで更に、この「不可思議」を岩波書店の『仏教辞典』で調べてみると、

「原語は、思いはかることのできぬの意で、その漢訳語。」

「また<不思議>に同じ。いずれも漢訳仏典の造語である。

ところでこの語は、<不可思議境界(きょうがい)>(目覚めの世界)、<不可思議功徳(くどく)>(仏の偉大な功徳)、<不可思議解脱(げだつ)>のように、本来は凡俗人には思いはかることのできない事柄のみを修飾する言葉で、わが国での用法とはやや異なる。」

「ちなみに、日本語でも仏教語としては古来本来的用法が多いが、早くから一般語化し、平安時代にはすでに善悪いずれについても、広く人智の及ばない(こと)、常識を越えた異様な(こと)の意に用いられ、非難の気持をこめて用いることも少なくなかった。」

と解説されています。

もともとは、我々迷っている者には、思いはかることのできないことを表現したもので、決して悪い意味ではなく、すばらしいものを称えているのであります。

「我が国の用法とは異なる」と書かれているように、日本ではあまりよい意味では使われていないことを認めています。

しかしながら日本において平安時代の頃から、この「不可思議」が「情識を越えた異様なこと」として、非難の気持ちで使われるようになったというのであります。

不思議という言葉も、もとは仏典で使われたものが、このような変遷をたどってきたことがわかります。

実に不思議な言葉だと言えましょう。

さて、坂村真民先生には、この「不思議」を称えた詩がございます。

長いのが「不思議抄」という詩であります。

十節に別れた詩であります。

 不思議抄
1
天国も
地獄も
在ると信じて
この世にいる時
善を為すことだ
2
目に見えない
神仏の実在を
知ること
これが信仰である
3
広大無辺の大宇宙は
不思議で
いっぱいである
だから頭をさげて
心服し
決して背いてはならぬ
4
不思議を
不思議と思わぬ人を
愚と言う
5
生まれたことの
不思議
生きていることの
不思議
両手を合わせる
6
別れを惜しむのは
人にではなく
また会うこともない
山中の朴の大木
7
老いゆけば
すべてが別れとなる如し
咲いて散りゆく
春の花花
8
神さま仏さまを祭るのが信仰ではない
本当の信仰とは
目に見えないものの不思議を知り
素直な心になり
すべてに愛を持つことだ
9
信仰とは
信じ仰ぐことです
疑わないことです。
目に見えない
不思議なお力を
身につけることです
10
ある旅館に泊ったら
床に
「無」の一字が
かかっていた。
わたしは早起きだから
その前に坐り
夜の明けるのを待った
仏と対坐している喜びが
旅の疲れを癒やしてくれた

というものであります。

この中の第五節

「生まれたことの
不思議
生きていることの
不思議
両手を合わせる」

というところから、いつも日曜説教の折に手を合わせて感謝する時の言葉にしています。

法話を始める前に、皆で手を合わせてから始めたいと考えました。

ただパッと手を合わせて終わるのではなく、何かもう少しでも深く感謝できる時間にできないかと考えました。

松原泰道先生が、「今日も皆様とご一緒に勉強できることに感謝します」と手を合わせていらっしゃったことを思いました。

そこでほんの三分ほど手を合わせて今日の出会い、ご縁を感謝しようと思ったのでした。

そうして、まずはじめに生まれたことの不思議に手を合わせることだと思ったのでした。

これは、

まなこ閉じて
トッサに親の祈り心を察知しうる者
これ天下第一等の人材なり

という徳永康起先生の言葉がもとになっています。

目を閉じたら、まず真っ先に親の恩を思うのであります。

親がいなかったら、この場にはいないのであります。

これは誰一人否定できない真理なのであります。

それから次に坂村真民先生は、

「生きていることの不思議」と詠われましたが、お互いに誰ひとりとして、自分一人では生きてこられなかったのです。

仏教の真理である三法印のひとつに「諸法無我」という教えがあります。

これを「この世にあるものひとりあらず」とも訳したり致します。

多くの方々のおかげでこうして生きてこられたのです。

そのおかげでここにいるのであります。

そして最後に、「今日ここにこうしてめぐりあうことが出来たご縁の不思議に手を合わせて感謝します」と申し上げているのであります。

たった三分ほど手を合わせて感謝して法話を始めると、話す方も話し安く、聞く方も法話がすっと心に入ってくると思って行っています。

これを取り入れて、法事などの仏事の折にもなさってくれている和尚様もいらっしゃいます。

有り難いことであります。

特にお寺で話をする時には、これを私は実践しています。

時には、大勢バスで参拝してくださった時など、本堂に入ってもまだざわざわしていることがあります。

それを法話を聞こうという雰囲気、空気に変えるのは、この三分間の合掌と感謝がとてもよいのであります。

場の空気ががらりと変わるのです。

そのようにして、生まれた事の不思議、今日まで生きてこられた事の不思議、今日こうしてここでめぐりあえた事の不思議に手を合わせているのであります。

坂村真民先生には、こんな詩もございます。

 不思議
念じていたら必ず
そうなってゆく
体も
そうなってゆく
周囲も
そうなってゆく
一切が
そうなってゆく
そういうものを
不思議と言う

不思議なことに満ちあふれた世界に私たちは生かされているのであります。

「不思議を
不思議と思わぬ人を
愚と言う」
とは手厳しい一言です。

 
横田南嶺

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