『禅僧たちの生涯 唐代の禅』
あとがきが二月十五日の涅槃会、出版が、四月八日の降誕会という実に仏縁の深いご著書であります。
この本は、もともと『大法輪』という月刊誌に連載されていたものをもとにして、大幅な修改と補足を加えたものであります。
『大法輪』では、二〇一八年九月号から二〇二〇年七月号まで二十三回の連載をもとにされたものです。
もともと二十四回の予定が、一回早く休刊となってしまったのでした。
小川先生もあとがきに、
「一九三四(昭和九)年から八十七年もの長きにわたって仏教の啓蒙・普及に多大の貢献をなしてきたこの伝統ある雑誌の休刊は、時勢の然らしむる所とはいえ、あまりにも残念なことでした」
と書かれていますように、私もまことにその通りの思いなのでありました。
思えば私にとって、『大法輪』は中学生の頃からの愛読書でありました。
毎月書店に『大法輪』を買いに行くのが楽しみだったのです。
大学を卒業して修行道場に入って、しばらくは外出もできず、『大法輪』を読むことができなかったことが、一番残念だったのでした。
それが有り難いことに、その長年親しんできた『大法輪』誌上に、私もつたない文章を何度か書かせてもらっていたのでした。
有り難いことだと感慨深く思っていたところ、休刊となってしまい愕然としたのでした。
小川先生の仰せにように、「時勢の然らしむる所」はいかんともし難いものであります。
そこで、この連載もやむなく春秋社から出版されることになったのでした。
この本のはじめに
「確かに禅僧たちは、要約的・概括的な説明はしてくれません。
禅の古典に出てくるのは、それぞれの禅者が、日常生活のなかのそれぞれの場面で示した、それぞれの姿と、それぞれの言葉だけです。
そこで、この書物では、出家・受戒・行脚・安居・開悟……、そんな生涯の順序をたどりながら、唐代の禅僧たちが、どんな生活空間のなか、どんな制度や習慣の下、どんな思考や情緒とともに生きていたのか、そんなことをうかがってみたいと思います。
個々の禅者の生き方を、個々の姿と、個々の言葉のままに描き出すことで唐代禅全体の空気を感じ取る、それが今回目指すところです。」
と書かれていますように、一人の禅僧の生涯を追ったのではなく、出家、受戒、行脚などにわけて説いてくださっているのです。
禅僧の生涯を説かれた新しい形の本であります。
小川先生の著書の魅力はなんといっても明解な解説にあります。
ご講義もそうですが、説明の仕方がとても明解なのであります。
本書にも
「そもそも禅宗では「己れの心こそが仏である」という考えが、一貫して、無条件の大前提になっています。
仏でないものが修行によって改造されたり精錬されたりして「仏」という別物に変化する、という考えは、禅宗にはありません。
人はもともと「仏」なのです。しかし、それをどう捉えるかについては、いろいろな考え方がありました。
最初期の禅宗ー神会のいう「北宗」ーでは、汚れた迷いの心の奥底に清らかな「仏」としての本性が潜在していると考えました。
表層の迷いの心を坐禅修行によって取り除いてゆくと、最後にその奥に隠れていた「仏」としての本質が顕現してくるという考え方です。
次に禅宗の主流となった馬祖の一門では、心を現実の迷いと本来の悟りの二層に分けることをせず、ありのままの心がそのまままるごと「仏」であるー「即心是仏」「平常心是道」ーと考えるようになりました。
迷っていようが悩んでいようが、今この時、この場の、活きたナマの心がそっくりそのまま「仏」だという考えです。
そこでは、自己の身心が行うあらゆる動作・営為はすべて「仏」としての本質が活き活きとはたらき出てきたものであるとされ、その事実を身をもって実感し自覚することが求められました。」
というように、わかりやすく禅の教えの特徴を説いてくださっています。
更に「このような考え方に対する批判から第二の主流派を形成した石頭系の人々は、「仏」としての本来の心と現実のナマの心、その両者を、二にして一、一にして二、という、玄妙な不即不離の関係として掘り下げようとしました。」
というのであります。
つまり「現に在る活き身の自己をそのまま真実と看るのか、それとも、それとは別の次元に真の自己を見出そうとするのか。馬祖の禅と石頭の禅のこの相反する観点は、その後もながく禅宗思想史の両極でありつづけました。」
という歴史が続くのであります。
小川先生の著書の魅力は、その明晰な解説と共に、禅の語録のわかりやすい訳文にあります。
臨場感あふれる訳文をつけてくださっています。
百丈懐海禅師の出家のいきさつを次のように訳してくださっています。
「子供の頃、母親につれられて寺参りに行った時、仏像を指さしてたずねた。
「これはナニ?」
「仏さまだよ」
「人によく似てるし、ぼくと何もちがわない。大きくなったら、ぼくもこれになる」
その後、僧となり、最上の教えを慕って、まっしぐらに大寂禅師こと馬祖の門下に投じた。
馬祖は一目見るなり室内に招き入れた。ひそかに奥義に達し、その後、他の師の下に行くことはなかった。」
ということです。
この話から小川先生は、
「百丈幼時の右の話は、禅が超越者や絶対者を想定せず、活き身の自己のみを根拠とする宗教だということをよく表しています」と説いてくださいます。
さらに「馬祖とならぶ唐代の代表的祖師、石頭希遷禅師についても」次の問答を訳出されています。
「幼き頃、寺参りに連れていかれ、母親にいわれて仏像を拝んだ石頭は、しげしげとそれを仰ぎ見ていいました、
「これはたぶん人でしょう。姿かたちも、手足のようすも、人と違わない。これが仏さまなら、ぼくもきっとこれになる。」(『祖堂集』巻4石頭章、「此蓋人也。
というものです。
そこから「禅宗には、仏でないものが修行によって「仏」という特別なものに変化するという考えはありません。
仏とは現実に活きている自分自身のことであり、悟りとは、もともと仏であるという事実に自ら立ち返ることに過ぎません。」
と解説してくださっています。
ではいったい行脚し修行して何を目指すのか、「曹渓の六祖恵能の没後、遺言にしたがって師兄である青原行思を訪ねて行った石頭希遷は、初対面の際、次のような問答をのこしています」という話がよくわかるのです。
青原、「貴公、どちらからまいった?」
石頭、「曹渓です」
「曹渓で何を得てまいった?」
「曹渓に行く前から何も失ってはおりませぬ」
「ならば、わざわざ曹渓に行く必要などないではないか?」
「曹渓に行っていなかったら、どうして、何も失っていなかったことがわかったでしょう?」
小川先生は、ここで
「曹渓に行くまでもなく、己れは己れ以外の何者でもない。そこにはゴマかすことも、ゴマかされることもない、ただ活き身の己れ一個あるのみです。
しかし、それがそうだと得心できたのは、やはり曹渓に行って六祖に出逢ったからなのでした。
禅僧たちの行脚の旅は、そもそも行脚になど行く必要のないありのままの自己に立ち返るためのーたどり着いてみれば、実は、初めからここにいたのだと気づくためのー時に長く、時に短い、旅だったのでした。」
と書いてくださっています。
小川先生の名訳によって、唐の時代の禅僧たちの問答が、今の世によみがえっているのであります。
『禅僧の生涯』お薦めします。
横田南嶺