決まりは多い方がいい?
我々僧侶となるには、必ず受戒を致します。
この戒がどのようなものなのかについては、実に興味深い変遷があるのです。
はじめお釈迦さまの頃は、お釈迦さまのもとで出家したいと願う者には、お釈迦さまが「来なさい。自分のもとで梵行を修せよ」と言ってくださると、それでよかったのであります。
「来なさい」というのが、漢訳で「「善来、比丘。梵行を修すべし」というもので、「善来比丘具足法」と言ったりします。
これで具足戒になったのです。
具足戒というのは正式に出家した僧侶が守るべき戒律を総称したものです。
そのはじめは、お釈迦さまの「善来比丘」という一言で済んだのでした。
お釈迦さまの第一のお弟子は、お釈迦さまと共に苦行していた五人の比丘の一人でした。
はじめは苦行を放棄したお釈迦さまを拒否していましたが、お釈迦さまの教えを聞いて、すぐに悟りを開いて弟子になろうとしたのでした。
そこでお釈迦さまが「来なさい。自分のもとで梵行を修せよ」の一言でよかったのでした。
だんだんとそのように仏弟子ができて、サンガという仏教教団が形成されてゆきました。
そこで仏法僧の三宝が成立しました。
仏さまと、仏さまの説かれた教えと、その教えを守り実践する集団であります。
次にこの三宝に帰依することによって、教団に入れることになりました。
これを三帰依と申します。三帰戒ともいいます。
それから更に戒が増えてゆきました。
殺生、偸盗、邪淫、妄語などから、さらに戒が増えてゆくのであります。
おそらく、なにか実際に困ったことが起きて、それを制止するために戒が増えていったのだと察します。
そうして、具足戒は増えに増えて、南方上座部では比丘は227条、比丘尼は311条を数え、東アジアの漢訳文化圏では『四分律』に従い、それぞれ250条、348条にまでなったのでした。
日本に鑑真和上が伝えられたのは、この『四分律』による具足戒であります。
鑑真和上は揚州江陽県(江蘇省)の出身です。
七三三年(天平五)に栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)らが中国から戒師を招請するために派遣されました。
栄叡と普照らは、七四二年(天平一四)揚州大明寺の鑑真和上を訪れ、来日を要請しました。
鑑真和上は、以後、五度の渡日を企てましたが、難破などにより失敗し、鑑真和上自身も失明してしまいました。
そうした苦難を乗り越え、七五三年(天平勝宝五)十二月にようやく日本にお越しになりました。
七五四年(天平勝宝六)には奈良に入り、四月には東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇を築いて聖武上皇、光明太后らに菩薩戒を授けました。
さらに、八十余人の僧に具足戒を授けました。
ここに、戒壇で三師七証方式により『四分律』の二五〇戒を授ける国家的授戒制が始まったのでした。
三人の師と七人の証明する師が立ち会って行われるものです。
東大寺の他に、下野(栃木県)薬師寺、筑前(福岡県)観世音寺に戒壇が設けられて、三戒壇と言います。
平安時代になって伝教大師最澄は、大乗仏教の正式な出家者になるには独自の戒があると考え、梵網経に説かれる十重四十八軽戒をもとにする大乗戒を主張しました。
今までの三戒壇を小乗戒壇であるとし、比叡山延暦寺に梵網経に説く大乗菩薩戒を授ける大乗戒壇の樹立をめざしたのでした。
しかし、これは最澄存命中には実現せずに、お亡くなりになって七日後にようやく認められたのでした。
鎌倉時代の道元禅師は、三帰戒と三聚浄戒と十重禁戒の十六条でよいと説かれました。
三聚浄戒は、摂律儀戒、すべての悪を断ずること、摂善法戒、すべての善を実行すること、摂衆生戒、すべての衆生を救済することの三つであります。
止悪(しあく)・修善(しゅぜん)・利他(りた)の三つを重視する大乗の立場がよく現れています。
江戸期には慈雲尊者が十善戒を主唱されました。
禅では一心戒というのも説かれています。
衆生の根底にある絶対的な一心にもとづく戒であります。
盤珪禅師の説かれたことがよく表わしています。
「酒をのまぬものには、飲酒戒はいらず、盗みをせぬものは、偸盗戒もいらず。うそをいはぬものには、妄語戒もいらぬごとくでござるわひの」と盤珪禅師は説かれました。
盤珪禅師は、仏心のままでいれば、戒などを意識することはないというのです。
細かな戒律という規則などは不要だという立場であります。
盤珪禅師は、修行道場の細かな規則などにもこだわらなかったようであります。
『盤珪禅師語録』に収められている『贅語』には、「師、衆を置く。規矩縄則を以てせず、而して自然に粛粛焉たり。所謂治めずして乱れず、令せずして正しきもの也」と書かれているように、盤珪禅師のお徳によって、細かな規則などで縛らずとも自然と粛粛と修行が行われていたのでしょう。
というように、戒というのもはじめはお釈迦さまの「善来比丘」の一言でよかったのが、三帰戒から増えに増えて二百五十もの戒になり、増えすぎた為か十重四十八になり、十六になり、十善戒になり、とうとう一心戒にまでなったのでした。
盤珪禅師の説かれるように、仏心でいればよいというのが究極だと思いますものの、盤珪禅師の教えを受け継ぐ者の系統は絶えてしまっています。
折から小川隆先生から、ご尊著『禅僧の生涯』と一緒に、『「問う」を学ぶ』という本を頂戴しました。
いろんな分野の先生方のインタビュー記事を集めたものです。
小川先生も「禅は「自己」をどう見てきたか」ということで書かれています。
その中で、内田樹先生が、興味深いことを書かれていました。
少し長いのですが、引用させてもらいます。
「…、戒律の基本は服飾規定と食餌規定になるわけです。「こういうものを着なさい、こういうものを食べなさい」という戒律が決まっていると、朝起きた瞬間から儀礼がはじまります。朝起きて、服を着て、朝ごはんを食べた時点ですでに基本的な儀礼がいくつか終わっている。朝ごはんを食べ終えた時点ですでになすべき儀礼が順調に果たされていると、それからはじまる1日が過ごしやすいでしょう。
儀礼って細かく決められていて、面倒なものだと思うかもしれませんけれど、逆なんですよ。儀礼があるほうが生きる上ではずっと楽なんです。」
というのです。
というように、儀礼を守っていれば、それによって魂の平安が得られるというのです。
更に「デュルケームの『自殺論』によると儀礼の煩雑さと自殺率の間には関係があるようです。
自殺率は当然、無神論者が一番高い。興味深いのは、その次がプロテスタントなんです。
プロテスタントはカトリックの形式性を批判して、人は儀礼によってではなく、信仰によって義とされるという改革運動でしたけれど、信者にとってはけっこうストレスフルなんです。
だって、自分が本当に神を信じているのかどうかを内心に尋ねることでしか信仰を基礎づけることができないから。
でも、自分自身に向かって「お前は神を本当に信じているか?」と問いかけて、「はい」と確信を込めて答えられる人はあまりいない。儀礼性が乏しいと、そこがつらいところです。だから、自殺率の高さでは下から2番目がカトリックで、一番低いのがユダヤ教だということになる。
多分イスラームもすごく低いと思います。
儀礼が煩雑になれば自殺率は低下する。そういう法則性があるようです。
それだけ儀礼抜きで、ただ内面の確信だけで信仰を基礎づけることは難しいということです。
…生活が儀礼で満たされていればいるほど、おのれの信仰の揺らぎを経験する機会は逓減する。」
というのであります。
盤珪禅師のように徹底された方は、仏心ひとつでよいのかもしれませんが、我々凡愚の者には、やはり、いろんな決め事があって、それを忠実に行っていることで安心感が得られるのだと思いました。
規則や決まりも面倒なようにも感じますが、深い意味もあるのだと思ったものであります。
ひょっとしたら盤珪禅師の教えを受け継ぐ者が絶えてしまったのも、そんなところに要因があるかもしれません。
横田南嶺