み仏は風の如く
花の如く
随時随処に
そのみ声を
み姿を現わし
給う
という詩が、坂村真民先生にございます。
『梁塵秘抄』にある、
仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
という歌を思います、
これは、「仏さまはいつもそばにいらっしゃるけれども、姿を現さないのが尊いのです。人々が寝静まった暁に、ほのかな夢の中で姿を見せるのです」という意味であります。
お釈迦さまがお亡くなりになって、お釈迦さまの肉体は無くなったけれども、お釈迦さまの教えは、不滅であるという考えがあります。
教え、真理は、永遠に変わることはないという教えであります。
その教え、真理を法身と呼ぶようになりました。
仏の真法身は猶虚空の如し、物に応じ形を現じることは水中の月の如しという言葉がございます。
仏さまの真実の姿は、虚空のようなものであって、姿形を目にすることはできません。
いや目にいっぱいに見えているのですけれども気がつかないというのが正しいでしょう。
虚空の如しですから、空気のようなものです。
目に見えないとも言えますが、目にいっぱいに見えているので気がつかないとも言えます、
そのように特定の姿を持たないのですが、到るところにその姿を現しているということです。
お月様は、小さな池にもその影を映すようなものです。
「法身無相」という言葉があります。
法身とは、滅びることのない真理そのもの、仏さまの真のお姿です。
その法身は無相であり、特定の姿形はないという意味です。
これは逆をいえば、随時随所にその姿を拝むことができるのであります。
この法身無相については、有名な禅問答が伝えられています。
禅の教えはインドから中国に見えた達磨さまから始まります。
達磨さまから代々六代目まで伝わって、第六代が六祖慧能禅師です。
六祖になって一層禅の教えがはっきりして参ります。
六祖のもとから南嶽懐讓禅師と青原行思禅師のお二人がでました。
南嶽禅師のもとからは馬祖道一禅師がでて、江西省で大いに教化を盛んにされ、百丈懐海、黄檗希運、臨済義玄と今日の我々臨済宗に伝わっています。
もう一方の青原行思禅師のもとからは、石頭希遷禅師がでておもに湖南省で教化を盛んにしていました。
石頭禅師のもとからは薬山禅師がでて、薬山禅師のもとから雲巌曇晟、洞山良价、曹山本寂と今日の曹洞宗につながっています。
薬山禅師のお弟子に船子和尚という方がいらっしゃいました。
この方は薬山禅師のもとで修行された方です。
道吾円智、雲巌曇晟とは同じ兄弟弟子の間柄です。
お互いにもう修行をすませてお師匠さんの薬山禅師も亡くなって、この船子和尚が、道吾禅師と雲巌禅師の二人に言いました。
これからお互い世間から遠ざかって山中深くこもってただひたすら仏道を養ってゆこうと言います。
ところが一番末の弟子の道吾禅師は少々納得いきかねて、三人とも山にこもっていては、せっかくの薬山禅師の教えも伝わらないではないかと疑念を懐きます。
船子和尚は「きみはそんな考えをしているのか、それなら山にこもらなくてもよかろう。好きにするがよい。ただし一つ頼みがある。私はこの後は華亭のあたりで小さな舟をだして気ままに暮らすつもりだ。
もしも将来君の弟子の中でこれはという者がいたら、そいつを私の処に寄越してくれ」と。
そう言われて道吾禅師は「では兄弟子の仰せの通りに致しましょう」と約束をしました。
道吾禅師は後に世に出ますが、これはという人物に会いません。
たまたまある僧から天門山の夾山禅師の評判を聞きました。
そこで天門山を訪れます。
夾山禅師の説法を聞きました。
その時に僧が「如何なるか是れ法身」真実の仏とはどのようなものですかと問うと、夾山禅師が「法身無相」真の仏には姿形はないと答えます。
更に「如何なるか法眼」正しい眼とはどんなものですかと問うと「法眼瑕無し」正しい眼には何の瑕もないと答えます。
それを聞いて道吾禅師は覚えず失笑します。
それを見て夾山禅師は、自分のどこがいけなくて笑われたのかと問いただします。
道吾禅師は、あなたは立派な方だが、残念ながらすぐれた師に巡り会っていないと言います。
夾山禅師はどうすればいいですかと問うと、道吾禅師は、華亭の船子和尚の処に行くがよかろうと船子和尚を紹介します。
この夾山禅師という方も純粋な方で既に大寺院の住持ながら、修行僧たちを帰して自ら一雲水となって華亭の船子和尚を訪ねます。
船子和尚は舟の上から夾山禅師に問います。
そこで問答が繰り返されました。
夾山禅師が舟から水中に叩き落とされたり、実にいのちがけの問答です。
船子和尚が「私が三十年薬山禅師の下で明らかにした真実を、今あなたは得た。これからは深い山中に身を養って一箇半箇弟子を育てて我が法を断絶することのないように」と託します。
そこで夾山禅師は舟を下りて何度も何度も振り返りつつお別れをします。
夾山禅師が見えなくなると、船子和尚は自ら舟を転覆させて水に入って亡くなりました。
見事な最期です。
その後、再び夾山禅師が寺に住しました。
お説法の時、修行僧が法身とはどのようなものですかと問うと、夾山禅師は、「法身無相」と答えました。
それを聞いた道吾禅師は、はじめて夾山禅師を認めたのでした。
船子和尚にまみえる前も後も同じように「法身無相」と答えているのですが、どうしてはじめは否定し、あとで肯定したのでしょうか。
この違いについて、禅問答によって追求するのです。
なかなか言葉で表現するのは難しいのですが、はじめの方は、まだ概念的に、仏の法身は到るところに満ちていると理解している段階で、船子和尚に出会ったあとは、仏の法身は今ここに確かに息づいている、生きてはたらいているという確信になったのだと言えます。
横田南嶺