人の世の悲しみ
ちょうどご本尊様がご開帳中だったのでお参りしたのでした。
牛に引かれてではありませんが、甲府市内に出掛ける予定があって、そのついででありました。
善光寺のご本尊について昨日お話した通りであります。
すばらしい一光三尊の阿弥陀様であります。
宝物館に入ると、またすばらしい仏像がございました。
平安時代の阿弥陀三尊像は、実にすばらしく、こういう仏像の前にいると自ずと手が合わされるものであります。
このような目に見える仏像に触れて、多くの人が信仰心を起こしたものだと察します。
美しくもどこか力強い仏様であります。
それから私の目を引いたのは、蓮生法師座像でした。
神々しい仏様とは対照的な、人の世の悲しみ、苦しみを見据えたような表情なのです。
両手が欠損しているのも、一層悲惨な感じをさせるのであります。
仏像や法然上人像とは対照的な深い悲しみ、苦しみを表わしています。
蓮生法師は、もと熊谷直実です。
『広辞苑』によると直実は、
「鎌倉初期の武士。武蔵熊谷の人。
初め平知盛に仕え、のち源頼朝に降り、平家追討に功。
久下直光と所領を争い、敗れて京に走り仏門に入って法然に師事、蓮生坊と称す。
一谷の戦で平敦盛を討ったことは平家物語で名高く、謡曲・幸若・浄瑠璃・歌舞伎に作られる。(1141~1208)」
と書かれています。
蓮生坊も「熊谷直実の剃髪後の称」として掲載されています。
平敦盛は、「平安末期の武将。参議経盛の子。従五位下の位階をもつが官職が無く、世に無官の大夫と称。一谷の戦で熊谷直実に討たれた。(1169~1184)」と書かれています。
かの一ノ谷の合戦(兵庫県神戸市須磨区)で、すでに勢力の衰えた平家が逃げ回る中に、熊谷直実は立派な若武者を見つけて「敵に後ろを見せるのは卑怯ぞ。戻って尋常に勝負せい」と手に軍扇を打ちふり呼び戻しました。
かくて直実と若武者との一対一の戦いになりました。
直実はたちまち若武者を組み伏せてしまいますが、いざ首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ年の頃十六、七歳と見える紅顔の美少年だったのです。
「あなたの名前を」と聞く直実にその若武者は「あなたにとって私は十分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」と答えたということです。
直実はその潔さに胸がつまりました。
しかし、討ち取らぬわけにはゆかず、その若武者を討ち取ったのでした。
それが平敦盛であって、青葉の笛を持っていたのでした。
一昨年に須磨寺を訪ねた折に、小池陽人さんにご案内いただいて、お庭にある敦盛と直実の像を拝見して、それから須磨寺に保存されている青葉の笛を拝見させてもらったのでした。
敦盛公の首洗いの池というのが須磨寺にありました。
それから、義経腰掛けの松というのも須磨寺にあって、源義経がこの松に坐って敦盛公の首と笛を実検したというのであります。
直実は、建久元年(1190)敦盛の七回忌にあたり、その菩提を供養する為に高野山に入り熊谷寺という寺を建立し、敦盛の霊を厚く弔いました。
これが直実五十歳の時でした。
その頃直実と叔父、久下直光との間の領地争いがあって、直実は自分が手柄を立てる事や金銭にばかりとらわれていた、これまでの生き方に空しさを感じ、出家を決意します。
五十三歳になって京都の法然上人を訪ねて出家したのでした。
法然上人から、泥の中でも、蓮のように清らかに花を咲かせる心を持って生きるという意味から蓮生という名を与えられたのでした。
若き青年を自ら手にかけねばならなかった人の世の悲しみを見つめ、領地争いなどの浮世の苦悩から離れて蓮の花のように生きようとされたのでしょう。
有名な逸話が、この蓮生は京都から関東にもどる時に、西を背にすると、浄土の阿弥陀仏に背を向けると言って、鞍を前後さかさまにおいて、西に背を向けずに関東に下ったというのがあります。
「浄土にも剛のものとや沙汰すらん、
西にむかいてうしろみせねば」
という和歌が残されています。
甲斐善光寺を訪ねて人の世の悲しみ、苦悩に涙した熊谷直実、蓮生を思いました。
一途なご性格が、偲ばれるのであります。
一遍上人にも善光寺ゆかりの話があります。
もっともこちらはまだ甲斐の善光寺が出来る前で、信濃の善光寺であります。
一遍上人は文永八年(1271)に再出家し、信州善光寺に参詣しています。
その折に唐代善導大師『観経疏』散善義に説く譬喩の「二河白道」の図を写したと伝わっています。
『二河白道』は『広辞苑』によれば、
「善導が「観経疏散善義」で説いた比喩。おそろしい火・水の二河に挟まれた細い白道を、西方浄土に到る道にたとえたもの。
火の河は衆生の瞋恚、水の河は衆生の貪愛、白道は浄土往生を願う清浄の信心を表す。」
というものです。
怒りや憎しみ、むさぼりや愚かさの渦巻く人間の世にあって、一つの道を歩んでゆくことを決意して一遍上人もお念仏を唱えたのだと思います。
悲しみや苦悩を抱えながら、この世を蓮のように生き抜かれた蓮生坊の生き方にも通じるものであります。
横田南嶺