静坐の要領 – 草木のように坐る –
「心をおちつけてしずかにすわること。すわって心身をしずかにおちつけること」という解説があって「静坐して黙考する」という用例が示されています。
また「静坐法」という項目もあります。
静坐法とは「静坐によって呼吸を調整し、心気を落ちつけて精神を統一し、腹式呼吸によって横隔膜の活動性を保つように努め、精神の修養と身体の健康をはかる方法」と書かれています。
静坐法で有名なのは岡田虎二郎先生であります。
森信三先生は、小学校を卒業した後に、岡田虎二郎先生の姿に触れて深く感銘を受けられています。
その偉容に触れて感動して、岡田虎二郎先生の本を読んで、独学で静坐を勉強して「腰骨を立てる」ことの大切さを学ばれたのでした。
岡田虎二郎先生は明治五年(1872)愛知県田原市田原町に生まれました。
大正九年(1920)にわずか四十九歳で亡くなっています。
生まれつき虚弱だったようですが、農業に従事し、十代後半から農業改良の研究に没頭しました。
後に、作物の改良から人間の心身開発を目指すようになります。
東西の哲学思想などを学んで独自の静坐法、呼吸法を打ち立てられました。
これが岡田式静坐法であります。
大正時代に一大ブームとなり、最盛期に静坐会は都内だけで百数十か所で開催され、正式な登録会員だけでも二万人いたとも言われるほどなのであります。
かの渋沢栄一や田中正造などの著名人も学んでいたそうなのです。
健康法のようにもとらえられていますが、岡田虎二郎自身は、
「静坐を習っている人もふくめて、世人の多くは、静坐の目的は病を治すことだと考えているようだが、静坐の目的とするところは、七情の調和である、七情が調和すれば病はおのずから癒るものだ、身体の健康増進にとどまらず、七情が調和すれば、各人にそなわっているいろいろな能力が十分に発揮されるようになる、その結果として、医学も政治も教育も、その他すべての方面で、改良、発展の道が開けるのだ、」と説かれいています。(『岡田虎二郎ーその思想と時代」』より)
七情とは、『広辞苑』では、
「7種の感情。素問霊枢(黄帝内経)では、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚。礼記の礼運篇では、喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲。仏家では、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲。」と説かれています。
喜怒哀楽のさまざまな感情であります。
これらを打ち消すのではなく、調和しているとよいというのです。
静坐法の要領を『岡田式静坐法と岡田虎二郎先生語録集大成』という本から引用してみます。
「静坐の姿勢は真っ直ぐで、而も自然である。
一、両足を土踏まずの処で深くX字型形に重ねて坐る。左右何れが下になってもよい。之は腰をしっかり立てる為めで、初めは足が痺れるであろうが、その時は腰を上げ立て膝になり、そのまま二、三分もすれば痺れはとれるから又元通りに坐ればよい。然し暫く坐り続け重心が安定してくれば、三十分位は痺れない様になる。時には足の組替えをしてもよい。
上、膝頭を少し開く、男は握り挙二つ、女は一つ位とする。
二、お尻を出来るだけ突き出し、重ねた足の上に軽く置く。昔からの教えにお尻の下に紙一枚を入れよということがある。
三、腰をぐっと立てて、下腹を膝の上に乗せる様な気持で坐る。そうすると体の重心は、重ねた足の上でなく、前方に安定する様になり足にかかる負担が軽くなるし、痺れもなくなる。体の重心が定まって来ると心も安定する。
よって腰を立てる事は姿勢の中で一番重要である。
或人が痺れない工夫をしました。先づ体重を感じない位置があるに違いないと考え、体重をお尻を少し上げ膝頭にかけておいて、漸次重ねた足の方へ移してみたり、又段々膝頭の方へ移してみたりした。すると一点、それは実に微かな一点に、体重を感じない場所があります。此所が大切な場所だと考えそこを、坐の中心として坐っていますので、もう痺れを知らなくなりました。
つまり前記或人の工夫した通りになる訳で、痺れなくなる。
四、上体を少し前に出し、肩と胸の力を抜きみぞおちの力も抜く。倒れ過ぎの様に思うが決してそうでなく、姿勢は緩やかなS字状の曲線を保ちながら、全体として垂直になる様に坐る。
五、之は頭を持ち上げ首を後襟に押付ける様に真っ直ぐにして顎を引くと自然にみぞおちが落ちる。
呼吸法。
岡田式静坐呼吸法は息を吸う時に腹全体はふくらまず、みぞおちがふくらみ、息を出す時みぞおちを落し乍ら、下腹丹田に力を入れていくのである。
少し詳細に説明すると、
呼気ーみぞおちの力を抜いて落し乍ら、息を徐々に出し下腹が大きく固く張り出す位に丹田に力を入れる。
息は鼻先きに兎毛をつけておいても吹飛ばされない位に、静かに長く出す。その時いきむのは禁物です。
吸気ー呼気で入れた下腹部の力を一寸弛める、みぞおちがスーッと膨らんで、息は瞬時に入って来る。
入ったら又直ぐみぞおちを落して呼気に移る。此の繰返しが呼吸法です。
一般成人の呼吸数は普通一分間十五~十八回ですが、静坐呼吸は之より遙かに少くなる。
一分間六~七回以下になれば上々ですが、進歩すれば一分間二~三回、それ以下に進む人も稀にはある。
然し、呼吸数を初めから少くしようとすると無理が生ずるので、数にこだわらず又腹一杯に多く吸おうとすると之亦無理が出るので、吸気も呼気も幾分余裕(二ブ)を残す事が必要です。
というものです。
それから岡田虎二郎は、静坐の心構えとして、
「坐禅は無念無想を要求す。然れども静坐にて無念無想を求ること亦不可なり。無念無想にならんと求むる間は無念無想は来らざるなり。
彼岸に着かんと求むる勿れ。 カイを棄て、カジを棄て、宛かも扁舟の水に漂う如くせよ、一葦の往く処にまかする如くにして坐るべし。
外界の響が耳に入り来ることもあらん、妄念の心頭に現われ来ることもあらん。ありとも頓着するには及ばず、強て之を掃い除けんと煩悶すること勿れ。
草木を見よ、何の求むる所なし、而かも断えず水を揚げ、しんしんとして繁茂す。草木の如くにして坐せよ。」
というのであります。
草木のように坐すというのは、いいなと思うのであります。
大地に根を張って、大地の力を吸い上げて坐るのであります。
「あえて求むるなかれ。無為の国に静坐せよ。坐するに、方三尺のところあらば、天地の春はこの内にみなぎり、人生の力と、人生の悦楽とはこの中に生ずる。静坐は真に大安楽の門である。」
という岡田虎二郎先生の言葉は至言であります。
ゆったりとどっしりと草や木のように坐るのであります。
横田南嶺