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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.04.03
今日の言葉

緊張していい

三月の第四日曜日の法話で、居士林主事の内田和尚が、いいお話をしてくれていました。

ご自身が緊張する性格だそうで、坐禅をすれば、大勢の前に出ても緊張しなくなるかなと思ったけれども、やはり今も緊張するというのです。

しかし、この緊張している様子、心臓の鼓動が速くなっている様子を観察していればいいのだと気がついたということを語っていました。

その通りだと思うのであります。

私なども、やはり人前では緊張するものであります。

そういう時にどうするかというと、やはり内田和尚の言われた通りで、緊張しているな、緊張するものだなと思っているだけであります。

ただ、緊張しないようにしようとすると却って取り乱してしまうものです。

リラックスすることも大事でありますが、人間はリラックスだけでは生きてゆくことはできません。

もともと動物として人間を見た時に、自然界の中ではとても弱い動物であります。

いつもリラックスしていたのでは、すぐに他の動物に襲われて終わりになってしまいます。

わずかな物音、普段とは違う気配を感じたら、緊張するようになっているのだと思うのであります。

心臓の鼓動が速くなるというのも、血流をよくしてすぐに動けるように準備しているのではないかと想像します。

そう思うと、普段と違う状況になると、緊張するのは自然なはたらきなのであります。

また大事な時などには、緊張感があるから、いいのであります。

緊張感がないと、これまたゆるみっぱなしになってしまいます。

というわけで、緊張していいと思うのです。

先日も、円覚寺の三人の老師方の大きな法要をお勤めしました。

普段と違って、仏殿の中には、建長寺の管長さまはじめ他の本山の管長さま方、それに僧堂の老師さま方が列席してくださっていて、その前で儀式を行うのは、やはり緊張するものです。

儀式が終わって、親しい老師と会話していて、「やはりよその管長さまや老師方がお見えになっている前では、緊張したよ」と伝えると、「管長さんでも緊張するんだ、そう言ってくれると、ホッとするよ」ととある老師が言ってくれました。

緊張するのも悪いことではないのです。

緊張しているなと思った時には、私は「まあひっくり返らなければいいのだ」と思っていました。

緊張しないようにとか、うまくやろうとか考えるとよくありません。

この場でひっくり返ることさえなければ、まあいいのだと思っていると、どうにか終えることができるものです。

ひっくり返らなければいいと思うことは、自然と足もとに心がゆくものです。

とっさに思いついたことでしたが、結果的に、頭に血が上るのではなく、足下に意識が行くようになってよかったのでした。

よくご紹介する話ですが、盤珪禅師に、ある在家の方が、自分はふと物音がしたり、雷がなると驚くのですが、どうしたらいいのですかと、どうしたら何があっても驚かないようになりますかと質問しました。

すると盤珪禅師は、「驚きなば只そのままにてよし」と答えています。

驚いたら、驚いたでいいのだということです。

驚かないようにしようと用心すれば、心がふたつに分かれてしまうというのです。

ある修行僧が盤珪禅師に、自分は妄想をしずめることが難しいので、どうしたら妄想をしずめることができますと問うと、盤珪禅師は、妄想をしずめようと思うのが妄想だと答えています。

ただ注意しなければならないのは、妄想だらけのままでいいかというとそうではないのです。

ここが大事なところであります。

雷についても、盤珪禅師はもうひとつお示しがあります。

ある女性が、盤珪禅師に雷が怖くて仕方がない、どうしたら怖くなくなりますかと質問しました。

それに対して盤珪禅師は、生まれた時には、物に恐れる心はなく、不生の仏心ひとつなのだ。

物に恐れる妄念というのは、生まれた後に起きた一念の化け物なのだ。

雷というのは、人のためにこの世界に雨を降らすものであって、人を困らせるものではない。その雷を相手にして、恐れをなすというのは、妄念という一念のしわざであって、外からくるものではない。

雷の音が聞こえたら、自心自仏を一筋に信仰すべしと仰せになっています。

自心自仏というのは、本来もってうまれた不生の仏心のことであります。

盤珪禅師は、よく鏡の喩えを用いられています。

妄想をやめようとか、驚かないようにとか思うよりも不生の仏心に目覚めることが大切だというのです。

それは鏡にうつる影のようなものだと説かれています。

鏡にはいろんな物がうつるけれども、その鏡の中には、影は残らないのです。

仏心は鏡よりも万倍も明らかなものなので、どんな念が起きようとも鏡の光の中に消えてしまって、あとかたも残らないというのです。

そこで盤珪禅師は、念はどれだか起きてもさまたげではないと説いています。

どれだけ驚いても緊張しても、不生の仏心には、影ひとつ着かないのであります。

また、妄想や驚きや憂いや様々な念というのものは、生まれつきのものではなく、自心の不生の仏心を肯い信じる心の中に、念は消滅するというのです。

そのように気がついていれば、緊張してもかまいはしないのであります。

また取り乱してしまうこともないのであります。

ではどうしたら不生の仏心になれるだろうかとなど思うと、盤珪禅師は、「不生になろうとするのは誤なり、本来不生也」とお示しくださっているのです。

 
横田南嶺

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