慈悲の心は生やさしいものではない
この本のはじめに、
「仏教の伝統的な考え方に従って哲学的な見解(見)と実践修行(修)とに分けて説明している。
正しい理解のない実践修行も、実践を欠いた哲学的思弁も、正しい瞑想の実践ではない。
正しい根拠に基づいた論理的な理解を踏まえ、さらに御しがたい心を修行を通して陶冶していくことが求められているのである。
すぐ後に説明されているように、哲学的見解の中心的な教義は「縁起」であり、実践修行の中心的な課題は「慈悲」である。」
と書かれています。
ここに仏教の重要な点が説かれています。
よく理解することと、実践することの大切さであります。
正しく理解して、その上で実践してこそ実りのあるものです。
なにもわからないままに、ただやみくもに言われた通りに動いているだけでは、仏教の深い理解は得られませんし、人格を陶冶してゆくこともかないません。
正しく理解するとは、何を理解するかというと「縁起」であると明確に説かれています。
実践の修行は「慈悲」であるとはっきり示されています。
そうしますと、仏教を学ぶということは、縁起をよく理解して、慈悲の心を身につけることだということができます。
ダライ・ラマ猊下は、そのあとに「慈悲の心を持つ」ことを説かれて次のように述べています。
引用させてもらいます。
「仏教修行の主眼は「心の連続体(心相続)」を穏やかにし、非暴力を実践することにあります。
一般に仏教では大乗、小乗の二つの修行の形態があります。
大乗の修行では、主に利他の慈悲心を提唱し、小乗の修行では他のものを傷つけない慈悲心をおおむね提唱しています。
このようにあらゆる「仏教の教え」(法)の根本には慈悲があります。
仏陀の素晴らしい教えは慈悲に根ざしています。
この教えを説いた仏陀(仏)は慈悲から生まれたとさえ言われます。
仏陀の主な性質は大慈悲心です。
他のものを救い、育むこの大いなる慈悲を持っているということが、仏陀へ帰依する理由なのです。」
という言葉であります。
大乗仏教の素晴らしさがここに十分説かれています。
思えば仏教の始まりは、慈悲の心と共にありました。
お釈迦様は、はじめ悟りを開かれた時に、
「わたしがいま証得したこの法は、はなはだ深くして見がたく悟りがたく、微妙にして思念の領域を超え、深妙にして賢者のみよく知るべきものである。しかるに人々は五欲を楽しみ、五欲を喜び、五欲に躍る。かかる人々には、この縁起の理は見がたく、この涅槃の理は悟りがたいであろう。
もしわたしが法を説いたとしても、人々はわたしの言うところを了解せず、私はただ疲労困憊するのみであろう。」
とお考えになって説法をしようとされませんでした。
しかし、インドの神様である梵天が、これでは世界が滅んでしまうと思って、お釈迦様に説法をお願いします。
すると
「その時、世尊は、梵天王の勧請を知りて、衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた。そこには、塵垢おおい者もあり、塵垢すくない者もあった。
利根の者もあり、鈍根の者もあった。善き相の者もあり、悪しき相の者もあった。教えやすき者もあり、教えがたき者もあった。
その中のある者は、来世と罪過の怖れを知っていることも見られた。
そのさまは、譬えば、蓮池に生いる青き、赤き、また白き蓮の花が、あるいは水の中に生じ、水の中に長じ、水の中にとどまっているもあり、あるいは水の中に生じ、水の中に長じ、水面にいでて花咲けるもあり、またあるいは、水より抜きんでて花咲き、水のために汚れぬものもあるに似ていると思われた。
かくて世尊は、偈をもって梵天王に答えて言った。
「いま、われ、甘露の門をひらく。
耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。」(増谷文雄『阿含経典による仏教の根本聖典』より)
といって、お説法を決意なされたのでした。
もしも説法をなさらずに、そのまま涅槃にお入りになっていれば、今日仏教は伝わっていなかったのです。
ここにお釈迦様が、
「衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた
というところに仏教の始まりがあります。
しかし、慈悲の心を身につけることは容易ではありません。
増谷文雄先生の『仏教百話』に次の話があります。
ある時お釈迦様が、たいへん奇抜な譬喩をもって慈悲のこころを修すべきことを、弟子たちのために説かれました。
それは
「比丘たちよ、たとえば、ここに、きたえにきたえられたひと振りの刀があるとする。
そこに、一人の者がやって来て、「いま、わたしが、この刀の刃を、飴のようにまげ、ねじりあわせてごらんにいれます」
と言ったとするがよい。ところで、いったい、彼にそのようなことが、できるであろうか。」
「大徳よ、そのようなことは、できるはずがありません。」
「なぜだろう。」
「大徳よ、そのようにきたえられた刀を、折りまげたり、ねじりあわせたり、できるわけがないではありませんか。そんなことをしていたら、けがをして痛い目にあうばかりでしょう。」
仏陀は、弟子たちの、そのような答えをまって、慈悲のこころのもつ徳を、つぎのように語らいでた。
「比丘たちよ、それとおなじように、もし、なんじらが、慈悲のこころを修め、それをたびたび繰りかえして、すっかり身につけてしまったならば、それを土台として立ち、そこに安住することをえて、もはや、なにものをも恐れることなきにいたるであろう。たとい鬼神があらわれて、なんじらの心をかき乱そうと思っても、けっして思うようにすることはできないであろう。」
『仏教百話』には、増谷文雄先生が、ここのところを解説して、
「それは、慈悲のこころを生やさしいものと思っている人々には、たいへん奇妙な警に思えるにちがいない。
だが、よくよく考えてみると、慈しみの心というものは、けっして生やさしいものではない。
慈しみの心の土台になるものは、もとより、人間の本性のなかに存するものである。
わが子は愛しい。わが親はいとしい。兄弟が悲しい目にあうと、わが身も惨然として涙を流す。
その慈しみと悲しみの心を、ひろく人間のうえに、さらに、生きとし生けるもののうえに拡げてゆくとき、それが慈悲というものである。
だが、それを拡大してゆこうとすると、さまざまな煩悩がそれを妨げる。
利己心もそれである。貪りの心もそれである。怒りや悪意もそれを妨げる。
党派心もそれを妨げ、せまい愛国心もそれを妨げる。
それらの妨げるものを一つずつ焼きつくし、きたえにきたえて、はじめてかぎりなき慈悲がなる。そのことを思うとき、いささかこの譬喩の意味に近づくことができるであろう。」
と説かれています。
すべては縁起によって成り立つものであり、孤立したものはないと深く理解して、慈悲の心をしっかりと身につけて、慈悲の心を土台として立ってこそ、はじめて仏教を学ぶ者と言えるのだと思います。
生やさしいことではないのであります。
横田南嶺