謎の般若心経講義
それが先月で終わりました。
これは、そもそも円覚寺の日曜坐禅会で盤珪禅師の語録を講義したのですが、出来なくなってしまったので、YouTubeで講義を始めたのでした。
花園大学の佐々木閑先生が、YouTube動画で授業を始められたのにならったものでありました。
これが、また不思議なご縁となって、その講義をしたものを一冊の本にまとめてくれたのでした。
この本が、『盤珪語録を読む』であります。春秋社の出版であります。
日本の禅僧では、白隠禅師はよく知られていますが、盤珪禅師というとあまり知られてはいません。
鈴木大拙先生が高く評価されて見直されるようになったかと思います。
鈴木大拙先生が編集校訂なされた『盤珪禅師語録』が岩波文庫から出ています。
盤珪禅師のことをざっと記しますと、元和八年(一六二二)のお生まれです。
現在の兵庫県姫路市網干区浜田に生まれています。
父親は、儒者であり医師でもありました。
盤珪禅師の特徴としては、二、三歳の頃より、死ぬということが嫌いで、泣いた時でも人が死んだまねをしてみせるか、人の死んだことを言って聞かせると泣き止んだということがあります。
この死を恐れる心は、無常を観る心でもあり、菩提心にも通じるものであります。
八、九歳頃になると、隣村の大覚寺に手習いに通わされていました。
十一歳の時に父が五十一歳で亡くなりました。
もともと死に対して深く感じる盤珪禅師のことですので、大きな衝撃であったろうと察します。
十二歳の時に、郷塾で『大学』の講義を受けました。
その時に、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」の一句を聞いて、「明徳とは何か」大きな疑問を抱きました。
塾の先生をはじめいろんな方に聞いて回るのですが、納得のいく答えが得られません。
ある方から、明徳を知りたいなら坐禅しろ、明徳がわかるまで坐禅をしろと言われて、盤珪禅師は、独自の坐禅修行に励みました。
全国をわたり歩いて修行したものの、肝心の明徳は明らかにならず、とうとう二十四歳の時に、故郷に帰り、小さな庵に入ったのでした。
そこでは、一丈四方の牢屋のような小屋を作り、出入り口をふさいで、ただ食べ物だけを出し入れできるようにして、大小便も中から排泄できるようにして、ひたすら坐禅に徹したのでした。
あまりに極度に体を痛めて修行したので、とうとう病に罹り、血の痰を吐くようになってしまいました。
更に食も喉を通らなくなり、七日ほど絶食、ついに死を覚悟しました。
明徳の解決ができずに死ぬのかと思っていたところ、あるときに「ひょっと一切のことは不生で調ふものを、今日まで得知らいで、さてさてむだ骨を追った事」と気がついたのでした。
二十六歳のときでありました。
三十歳の頃に黄檗の僧に参禅して、その心境を高く認められたのでした。
それからというもの、盤珪禅師は、生涯をかけて「不生の仏心」を説かれたのでした。
「不生」というのは、なにかの条件によって生み出されたり、修行によって獲得されるようなものではなく、もともと具わっているということです。
人は誰しも本来仏心、仏様の心を持っているというのであります。
このことを繰り返し説かれたのでした。
お互いもって生まれたのは、不生の仏心一つです。
それが、我が身を可愛がるために、貪りや怒り、愚癡、愚かさという迷いを自ら作り出して、地獄や畜生、餓鬼、修羅という迷いの世界を生み出すのだというのです。
本来が仏心ですから、何かになろうとすること自体が造作なこと、余計なこと、無駄なことだと一貫して説かれたのでした。
七十二歳でお亡くなりになったのでした。
さてこの盤珪禅師に『心経抄』という般若心経を講義した書物が伝えられています。
これが、ほとんど注目されていません。
同じ禅僧の般若心経について書かれたものでも、白隠禅師が註釈された『毒語心経』などは、いろんな提唱本がございます。
岩波文庫の『般若心経 金剛般若経』には、
「日本で『般若心経』の講義がなされて千年になるのに、それは漢文でばかり書かれていた。われわれ日本人のことばで書かれることがなかった。
ところが盤珪はこの慣習を意識的に破った。われわれは日本人だから、日本人の話す平生のことば(平話)で語るべきだというのである。
ところがどうしたことだろう。こういうはっきりした自覚を以て書かれたこの書が、日本の学者の編纂した『大正新修大蔵経』続篇にも、『日本大蔵経』にも『大日本仏教全書』にも入っていない。
一昔前までの仏教者は『般若心経』を講義する場合にもこの書を省みようとしなかった。
近代日本の仏教学者までが、漢文で偉そうに書かれたものは尊く、われわれのことばで書かれたものは賤しいという驚くべき権威至上主義にとりつかれていたように見受けられるのである。」
と書かれていて、ほとんど注目されてきませんでした。
それは岩波文庫の『盤珪禅師語録』にも鈴木大拙先生が、「盤珪には、こんな著述はなかったと言いたい」と書かれているからでもあろうかと察します。
『盤珪禅師全集』を編纂された赤尾龍治先生は、盤珪禅師が、経典や語録を用いて説法することをしないと明言されているので、般若心経の解説書を作るはずがないと説かれています。
駒澤大学の鈴木格禅先生に、「「盤珪永琢『般若心経抄考』」という論文があって、そのなかに鈴木先生が、昭和三十年頃に、この『般若心経抄』を古書店で発見されたことが書かれています。
その写本は盤珪禅師没後四十一年に書かれたものだというのです。
しかも、覚書があって、そこには、「此一冊ハ先年盤桂禅師、府内石河氏宅二而講談之趣ヲ書留タル旨」と書かれているのだそうです。
盤珪の珪の字が異なっていますが、興味深いことであります。
こういう論文を拝見すると、あながち盤珪のものではないと否定することもないのではないかと思います。
ともあれ、謎の多い般若心経の講義なのですが、今までほとんど顧みられなかったものですので、このたび講義をしてみようと思った次第です。
『禪門法語集 巻下』に収められている「正眼国師 心経抄」を底本にして、なぞの般若心経講義を講義してゆきますので、ご関心のある方はどうぞご覧ください。
横田南嶺