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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.03.12
今日の言葉

慈悲とは理解 – 禅僧の祈り –

どうして円覚寺にご縁があったのか、今も不思議としか言いようがないのです。

私は、小学生の頃から坐禅を始めました。

それは、二歳の時に祖父が亡くなって、人は死ぬものであると知り、更に小学生の時に同級生が亡くなって、人はいつ死ぬか分からないものであることを知って、いろんな宗教や哲学を学ぶうちに、坐禅にたどり着いたのでした。

なぜか分かりませんが、禅寺を訪ね、禅の老師にめぐり会った時に、「ここに本当の道がある」と思ったのでした。

それから、ただ坐禅をして今日に到るのであります。

中学生の頃から、公案という禅の問題をいただいて、問答をする修行を始めてきました。

かれこれ四十年以上前のことであります。

いろんな宗教書などを読みあさる内に、当時円覚寺の管長だった朝比奈宗源老師の本に心ひかれました。

朝比奈老師は、四歳の時に母を亡くし、七歳で父を亡くして、死んだ両親がどこにいったのかという問題を、坐禅をして明らかにしたと書かれていました。

我が意を得たりとの思いで、坐禅の道に間違いはないと確信したのでした。

では、人の死をどう受け止めるのか、朝比奈老師は、『仏心』という本の中で、

「常にお互いが頼りにし、お互いの生活の根底としている意識そのものには実体は無く、その意識の尽きたところに永遠に変わらぬ、始めもなく終わりもなく、常に清らかに常に安らかに、常に静かな光明に満たされている仏心がある、しかもあらゆるいのちあるもの皆この仏心をそなえている」

と説かれています。

更に朝比奈老師は「私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。

生まれたからといって仏心の大海は増えず、死んだからといって、仏心の大海は減らず。私どもは皆仏心の一滴である。
 一滴の水を離れて大海はなく、幻の如きはかない命がそのまま永劫不滅の仏心の大生命である。
 仏心の他には大宇宙の中に、蟻のひげ一本も存在しない。
 仏心には罪や汚れも届かないから、仏心はいつも清らかであり、いつも安らかである。
これが私たちの心の大本である。」

と説かれているのです。

坐禅の修行は格別偉くなることでも、特殊な力を身につけることでもありません。
皆この仏心の中にあることをはっきり確かめるだけです。

そのように紀州熊野で朝比奈老師の本を読んで坐禅をしていた少年が、ご縁があって、円覚寺で修行するようになり、僧堂の師家という指導者になり、更に平成二十二年からは管長を務めているのです。

管長に就任して朝比奈宗源老師の三十三回忌法要の導師を勤めるようになったことも不思議としか言いようがありません。

さて、坐禅の修行は、皆仏心の中と悟ってそれきりではありません。

生も死も仏心の中と澄ましていていいわけではありません。

仏心の中にありながらも、人は生を喜び死を悲しみ、苦しみ悩むものです。

その悩み苦しみをしっかり見つめ、ともに悩み苦しむ慈悲の心が出てこなければなりません。

お釈迦様が御一代にわたってお説法されたのも、朝比奈老師が仏心の世界を説かれたのもこの慈悲のお心です。
 
私の生まれ育った紀州熊野からは何人かの立派な禅僧が出ています。

近年では本宮湯の峰から出られた山本玄峰老師が知られています。

更に江戸の末期から明治にかけて活躍された雪潭老師が出ていらっしゃいます。

雪潭老師は今日鬼叢林として名高い岐阜県伊深の正眼寺僧堂を開かれた老師です。

峻厳一徹そのあまりもの厳しさから「雷雪潭」とあだ名されたほどです。

雪潭老師は紀州太田のお生まれで地元の大泰寺で出家されました。

修行して隠山禅師のお弟子の棠林禅師の法をお継ぎになっています。

三十代で紀州大泰寺の住職となり十年間を紀州で過ごされました。

先日和歌山県を訪れた折に、この大泰寺を訪ねてきました。

今も、いにしえの禅僧がそこで暮らしているかのように感じる禅寺であります。

雪潭老師は四十二歳で、後の瑞龍寺僧堂になる天沢僧堂に出られますが、その頃に太田川の河口に船を入れるのが困難なために海難事故が多かったようなのです。

そこで雪潭老師は川を見渡せる山の上に、法華経の一字ずつを石に書いて埋めて経塚を建てたそうです。

その経塚が地元でも忘れかけていたものを再発見されたということを何年も前に知って感動したのでした。

後年雷雪潭とまでおそれられた老師ですが、地元を離れるに当たって海難事故が多く、地元の漁師さん達の深い悲しみを思ったのでありましょう。

大切なお父さんを亡くした人や、自分の大事な跡取り息子を亡くすなどして、悲嘆に暮れている村の人々の、その悲しみを老師は心から受け止めて、一人太田川原の石を拾ってきては一字一字写経して山中に埋めて、亡くなった方の冥福と残された人の幸せを祈らずにはいられなかったのでしょう。 

どうか村の人々が安らかでありますように。

どうか、もう、悲しい事故が二度と起こりませんようにと。

誰も見ていないところで、人の悲しみを自分の悲しみとして一字一字お経を石に書き山に埋められた老師のお心を思います。

朝比奈老師は「慈悲とは理解である」と説かれました。

また「慈悲とは慈しみであり、思いやりである、人の不幸を見てああお気の毒な、どうかしてあげたいと思うだけでも善業です」と説かれています。

大泰寺を訪れて、禅僧雪潭老師の深いお慈悲の心を思いました。

ただいま、この大泰寺を守っておられるのが、西山十海和尚です。

お若い和尚さまですが、お寺を宿坊として開いて、いろいろ努力されています。

雪潭老師のお寺を守ってくださっていることに感謝します。

 
横田南嶺

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